死神と女神の狭間 第一章  

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「あなた、少しお話ししたいことがあるのですが」
 やわらかく丁寧な口調で進言してきたその女性は、テラ=レンシンク――マルクスの妻だった。
 応接間。マルクスは自室の隣にあるこのさっぱりとした部屋で、軽く酒を飲みながら考え事をするのが日課となっていた。
 ファルと娘のことについて話してから小一時間、彼はずっと椅子に座ったまま、グレーン酒の入った台形の小さなグラスを片手に、あれこれ考えをめぐらせていた。二日後の中央会談で、戦争には慎重になるようにとネイル国王に伝えなければ。その根回しのために必要な人員を集めよう。五日後の商人会との交流会では、フランセの街の経営者が支払っている会費を三パーセント安くしてもらうようプーム会長をなんとか言いくるめなければならない。中央のソング外交長官の息子が、このフランセで農作物の卸業をほぼ独占的に営んでいる現在の状況を何とかせねば。そういえば、娘の就職先の手配も進める必要がある。どこにすべきか。やはりモルガンの臨海図書館か、あるいはアーヴァンクの町立図書館か――。
 それらのことを頭の中で整理し、明日からの行動計画を立てる。彼はそうやって次の一日を可能な限り効率的に使えるよう準備を整えるのが習慣となっていた。今日もいつも通り、様々なことをまとめあげて――。
 そこに現れたのが、テラだった。
 主たる用は、明日の日程についてだった。妻であるテラはマルクスの秘書でもあったため、彼のスケジュールは彼女がすべて管理し、なにか変更があれば、マルクスに逐次伝えるようにしていたのだった。
 今回も、フランセの兵士に採用している『魔力がこめられた手甲』について三日後に打ち合わせる予定だった魔道立国ミコールのレジェス司祭から、急に外せない用事が入ったため打ち合わせを延期してほしい、という知らせを受けたことをテラは夫に伝えにきただけだった。それを聞いたマルクスはやや呆れ顔で「これだから魔法使いは。どうせまた『風の精の怒りを静める儀式が入ったからだめだ』とでも言うのだろう。バカバカしい」と憤慨していた。
 それを受け流し、テラはしばし云おうか云うまいか迷うようにした後、夫にきり出したのだった。
「娘は――メロウは、やはりどうしても司書になるしか道はないのでしょうか」
 決して夫の機嫌を損ねることのないよう、慎重に、つつましげな調子で、テラはマルクスに云った。
「もうすぐメロウも十八になります。自分にとって何が幸せで、何がつらいことか、メロウはメロウなりに考えているのだと思います。だからその、人形屋は無理でも、せめてネイル国王の宮殿付きの侍女とか、国立病院の看護師とか、そういったものの中からメロウに選ばせてやっては――」
 テラは夫の顔色をうかがいながら、精一杯丁重に言葉を選んでいた。それを聞いたマルクスも、妻が何とか娘の望みをくもうと夫に対し最大限の配慮を願っているのだということを、十分感じ取っていた。
 だが、
「だめだ」
 マルクスの頑固なまでの考えは、やはり変わることはなかった。
「騎士長の娘が、侍女だ、看護婦だなどと……。それでは一端の貴族の娘と変わらぬではないか。私が騎士長である以上、メロウには四地域のどこかの法規長や司書長など、文官の中でも高い位に就いてもらいたいのだ。一般の人間では届くはずもないそれらの身分になれる機会が、メロウにはあるのだ。それを、好きではないから、という理由にもならない理由でみすみす失うのは、あまりに愚かだと思わんか?メロウにはまだ、幸せの本当の意味がわかっていないだけなのだ。なってみれば、メロウも必ず司書の方が幸せだったと思えるようになるはずだ」
 マルクスは厳然と主張した。妻がどれほど下手に出ても、彼は聞き入れる耳を持たなかった。
 妻はメロウのよき理解者であった。メロウに家庭教師をつけ、日夜、司書になるための難しい文化や歴史の学習をさせているときも、妻はつねにメロウの心情を気にかけ、ほしい物を買ってきたり外に連れて行ったりと気晴らしをさせていた。そのことはマルクス自身もおおいに理解し、感謝もしていた。しかしこの一件――娘の将来の進路――についてだけは、彼は妻に全く譲るつもりはなかった。司書になることは娘のこれからの人生の分岐点になるだろうし、騎士長の任務で戦争が迫っていることが実感として分かっていることも、彼にそうさせていた。さらに彼はもともと譲歩という言葉をあまり知らぬ男だったし、だからこそ今の地位を築けた部分も確かにあった。それらが、彼の押せど揺らせど崩れぬ固い信条を形成していたのだった。
 だがテラも、彼とは長い付き合いである。鉄のようにかたくなな彼の性格は百も承知しているはずだった。それでもテラは、あきらめきれない、何とかしたいといった様子で、夫の顔を見つめた。
 ゆっくりと、テラは口をひらいた。
「……好きでないから、という理由は、本当に自分の行く先を決める理由にはならないのでしょうか」
「なに」
「だれしも若い頃は、多少なりとも夢をもっているものではないでしょうか。それが実現するにしても、実を結ばないにしても、それまでは自分なりに、後悔の無いよう努力しようとするのではないかと――。私もそうでした。若い頃は外交官になり、世界中の人々と知り合いたいという夢がありました。あなたもそう。あなたは国一番の騎士になって、この国を守ることが夢。そして、あなたの夢はまだ続いている……」
「……」
「私は、後悔はしていません、もちろん。あなたに会って、あなたと結ばれることができて、私は幸せです。でもそれは、自分の夢――外交官になることよりも、あなたの妻になることの方が幸せだと感じたから、そうしたのです。でも今のメロウは、このまま司書になっても自分の夢をずっと捨てきれず抱えたまま、心の中で消化できないような、そんな気がするのです」
 娘をおもい、あふれ出る言葉をいったん留め、テラは夫と、そして娘と同じ澄んだブルーの目で、背の高いマルクスの顔を見上げた。
「メロウの悔いなきよう、どうかご配慮を――」
 妻の心からの願いを聞き、マルクスはしばらくだまったあと、重々しく「わかった」とだけ答えた。
 それを聞くと、メロウの母は何も言わず一礼し、ゆっくりと自室へと戻っていった。
 妻の部屋の扉が閉まる音がし、マルクスはひとつ息をつく。すこしの驚きが、彼の胸の中に残っていた。
 自分の昔の夢についてテラが口にしたのは、いまが初めてだった。
(外交官、か。そんな夢があったのか……)
(私といることが、外交官になることよりも幸せだと、テラは云った)
(当然だ。騎士長の妻として私のそばにいるほうが、気苦労の重なる外交官などよりどれほど幸せなことか――)
(いや、どうか。娘のことについて苦労をかけたのは――)
(テラには娘のことで苦労をかけている。しかしそれでも私との生活を幸せだと――)
(娘のことについてよく分かっているのは、私か、テラかと問われれば――)
 マルクスは眉間を押え、よけいな雑念を払おうとするかのように首を横に振った。だが彼の心につきまとうものは一向にとれる気配がなく、さらにマルクスの心象を脅かすだけだった。
 妻の性格は、長年連れ添ってきた彼にはよく分かっていた。仕事に明け暮れ、ともに過ごす時間も限られていたとはいえ、妻が静かでひかえめな、それでいて言いたいことははっきり言う人間なのだということを彼は知っており、そこを彼は好いていた。なおかつ、なかなか自分の主張をしない妻がいざ夫のやり方に口を出すときは、大抵の場合において妻の言い分の方が正しいことを彼は経験で分かっていた。それゆえ、マルクスは決して曲げようとしない自分の信条と妻の信頼性のある助言との間で板ばさみにあい、苦しんだ。
 やがてマルクスは観念したかのように深い息をはくと、ひとつの考えに思い至った。
 メロウが別館に自分の部屋をもってから、妻と娘、自分の三人水入らずで話す機会がなかったことを、彼は思い出したのだ。明日やってみよう。娘と私の二人だけではすぐにいさかいになるが、テラがいることで娘ともしっかり話をすることができる。そして娘の考え方にも変化をもたせることができるかもしれぬ。そうすれば、テラも少しは気が和らぐだろう。
 そんなことを期待しながら、彼は頭の中で明日の日程を確認した。明日の午後からなら大丈夫だ。よし、さっそく妻にこのことを伝えよう。彼は妻を呼ぶために、革張りの大きな椅子から勢いよく立ち上がった。
 そのときだった。
 ジジッ……ジジジッ……。
 妙な音がする。彼は予感めいたものを感じ、顔をこわばらせた。
 すると彼の目の前に、突如黒い「ひび」が現れた。
 空間にできた割れ目、とでもいうべきか。何もないはずのその場所に奇妙な光景が描き出され、突如としてマルクスの前に立ちはだかった。
 少しして、その「ひび」からぬっと人の頭がのぞいた。
 肩、腰、足と徐々に全身がその「ひび」から現れ、フードをかぶった老人の姿が彼の前に降りてくる。
 マルクスは少し目を見張りながらもあわてることなく、その背後から「ひび」が消え、杖をついた老人だけが応接間に残るのを確かめた。
「ご機嫌いかがかな、ご主人」
 現れたボダ=ハは、平然とした調子でマルクスに告げた。
 皮肉っぽいあいさつを無視し、マルクスは緊張感の高まった、真剣な表情で尋ねた。
「……来たか」
「堂々と正面玄関から乗り込んできおった。騒ぎが聞こえたのが邸内に入ってからじゃから、恐らく変装でもしておったのじゃろうな。しかし真っ先にそれに気がついたのが、我らがファル隊長とは、彼も運が悪かったのう」
「ファルが?そうか」
 マルクスはうなずき、さすがだと胸の内で感心した。ファルが先頭に立つなら、よほど腕の立つ者でない限り敵うことはないだろう。何しろネイル国の武芸大会で、若干二十四歳で準優勝を獲った男だ。その辺の並の剣士とは実力に雲泥の差がある。それに暗殺者などは忍び込むことは得意でも、いざ正面きって立ち向かわれると大した力などないものなのだ。
「ファルが対応しているならまず問題はないだろう。しかし――」
 それよりも、彼は気になった点があった。
 それを察したように、ボダ=ハが声をかけた。
「やつはおとり、じゃな」
 しわがれた声で老人がそう云うと、マルクスはうなずいた。
「いくら変装しているからとはいえ、正面玄関からの侵入はあまりに安易すぎる。それとも兵を二分させるための苦肉の策なのかもしれないが……。どちらにしろ、もうひとりかふたりは、時間をおいて別の場所から侵入してくる可能性が高い」
「さすがマルクス様々。すばらしい御推測じゃ。これなら暗殺者がいくら足を忍ばせても、とうていネイル国騎士長の命をかすめとるようなことはできますまい」
「お前はよけいなことはいわず、ただ異変を知らせてくれればそれでいいのだ」
 しらじらしい老人のほめ言葉にうんざりした様子で、マルクスは応えた。
 とりあえず、最初の侵入者はファルが取り押さえてくれるだろう。問題はこれから侵入してくる者への対応だ。やはり警備の最も薄くしてある西門からか。だがこの部屋は西門から最も遠い位置にある。どこかで地獄耳のボダ=ハが気づけば対応が遅れることはないだろう。北門・東門はこれ以上ないくらいに兵数を充実させている。だれにも気づかれずに近づくことは難しいはずだ。
 彼は頭の中で現在の警備状況をチェックしながら、これまで何度となくイメージしてきた対応策をまとめた。これまでの侵入者も全く問題なく、この方法で抑えることができた。あとは、どこで侵入に気がつくことができるかだ。それに関しても、ボダ=ハがいれば――。
 と、彼がボダ=ハの方を確かめたとき。
 急にその老人の顔が、いままでになくこわばった、ゆがんだ表情になっていた。
 これまでの彼の皮肉っぽい、余裕のある色がフードの下から消え失せ、何かよくわからない、とでもいうような疑問の表情をうかべている。
 その変化に気づき、マルクスも疑問の言葉を投げかけた。
「――どうした」
「……これは……」
 これは、と云ったきり、その老人の口はまるで石と化したように、まるきり動かなくなってしまった。体は小刻みにふるえている。
 マルクスの中で、嫌な予感が走った。
 なにもしゃべろうとしない老人に、マルクスは業を煮やした。
「おい、なんだ。なにか聞こえたのか?なにが聞こえたのだ」
 そういわれ、ボダ=ハはかろうじて口を動かした。
「……これは……しかし」
「?」
 ねじが一本はずれたかのように、突然の変調をきたした地獄耳の傭兵ボダ=ハは、ゆっくりと体の方向を変え、右手の人差し指をもちあげた。
 まるで暗示がかかったかのようにおもむろにさされたその先には、マルクス夫人――テラの部屋に通じる扉があった。
 そのとき。
 ――ガシャン!
 と、ガラスの割れる音がマルクスの耳に入った。
「!?」
 不吉な予感が、彼の胸を突き刺した。
 彼はすぐさま走り出し、目の前にある妻の部屋の扉に手をかけた。ノックする間もなく、扉を開け放つ。
 バタン、という扉の音とともに、彼の視界に妻テラの部屋の光景が入ってくる。
 あまり広くない部屋に、落ち着いたならびの本棚と衣装入れ。小さなテーブルに入れ立ての紅茶がはいったカップが置かれている。そこまでは、彼も見たことのあるなじみの光景だった。
 しかし、そのテーブルの足下に横たわったテラの姿は、彼のどの記憶にもそぐわなかった。
「テラ!」
 一見してぐったりした様子と分かる妻の首元に、赤黒く流れ出すものが見える。
 マルクスはすぐにかけ寄りたい衝動に駆られた。しかしそのとき、彼の中に生じた強い危機感が、彼の足を止めた。
 何かの気配。彼は部屋を見回した。その瞬間。
 彼の左肩に、突き刺すような激痛が走った。
「!?」
 肩をかばいながら、反射的に左側を向く。
 妻に手をかけたであろう張本人は、たったいま壊されたガラス窓のそばに立っていた。
 左肩に刺さったのは、細長い針のようなもの。彼は自分の左肩をおさえながら、その憎むべき侵入者の姿をみる。
 マルクスは、大きく目を見開いた。
 その目に映ったのは、たるみなくぴったり合った黒の服に全身包まれた、細く華奢な女性の体。その服と同じく長く黒い髪に、深いアメジストの瞳。引き締まった口元と油断のない目つきが印象深い。
 マルクスは青ざめた。瞬間的に頭が真っ白になり、直後、胸のあたりにひどい息苦しさを感じた。
 目の前の光景が信じられない。暗殺者に侵入を許した?どうやって侵入した?妻が暗殺者の手にかかった。早く助け出さなければ。しかしそれらは一瞬、彼の頭の中から忘れ去られた。そんなことよりも、いま自分の前にいる暗殺者それ自身の姿に、彼は戸惑いを隠せなかった。
 彼は青白い顔のまま、低い声で、侵入者の名前を口にした。
「――ルナン君――」




 
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