死神と女神の狭間 第一章  

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 その女性の妖しげで暗い紫色の瞳は、何物をも遠い彼方に見やるような、あるいは何も見ようとせず虚しくたたずんでいるような、どこまでいってもつかみどころのなさそうな不思議な表情を、その繊細な顔の中につくり出していた。
 ボダ=ハの地獄耳をかいくぐりマルクス邸に侵入した者、そしてマルクスの妻テラに手をかけ、その命を刈りとった者。
 それは目の前にいる、彼が昼間に会った警察局の女性・ルナン=クリシー以外にはありえなかった。
 マルクスは一瞬、思考が止まった。そして次の瞬間、これは本当に現実のことかと疑う心の動揺と、たとえようもない怒りが、彼の腹の底でわきあがった。
 二の句が継げぬまま、彼はなんとか気を取り直そうと、ゆっくり妻のところまで近づいていく。ルナンとおぼしき女性の動く様子がないのを見て取ると、彼はさっと妻の側まで近寄った。
「テラ!」
 彼は口に出して呼びかけたものの、遠間からみたとおり、妻の首の傷は深く、きれいに切り裂かれていた。素人でもわかるほどの、明らかな致命傷だった。
 テラの顔を見下ろす。ブルーの目が開かれたままの、無惨な死に顔だった。おそらく痛みを感じる間もほとんどなかっただろう。それだけが彼にとって唯一の、わずかな救いだった。
 マルクスはショックのあまり全身から力が抜けるのをなんとかこらえ、騎士長としての誇りと夫としての復讐心を燃えたぎらせ、部屋の奥にいる暗殺者をにらみつけた。
「きさま、よくもぬけぬけと……」
 低く、押しつぶすような声でいいながら、彼は部屋に入ったとき肩に刺しこまれた針を、右手でひとおもいに抜いて捨てた。そして、ゆっくりと腰の鞘から剣を引き抜く。柄に埋め込まれた水晶に、風の刃を生み出す魔力が込められた剣。名誉ある者だけが手にすることのできる、騎士長の剣。いまはそれが憤怒の仮象として、彼の右手に強く、強くにぎられている。
「ルナン=クリシー。いや、それも偽名か。娘のメロウに近づき、邸内を物色し、私の信頼まで買おうとするとは……。貴様、自分がどういうことをしたのかわかっているだろうな!」
 激しくたちのぼった怒りを相手にぶつけながら、マルクスは力強く剣の柄を握りしめ、いつでもきりにかかれる体勢を整えた。
「我らをだまし、私の妻を殺めた罪、死んでも償えぬぞ!」
 マルクスは叫ぶ。だが、それでもルナンは答えない。ただずっとだまったまま、冷えた目線をマルクスに送り続けるだけ。
 全く返ってくるもののない相手の様子をみて、マルクスはじりじりといらだちを募らせた。
 ……この女、本当にあのルナンか?
「ボダ=ハ!」
 彼は暗殺者から目を離さぬまま、声をあげた。
「例の件だ。娘を、頼むぞ」
 彼の言葉に、少しはなれたところから様子をうかがっていた老傭兵から、声が返ってきた。邸内の侵入者を知らせることが彼の役目だったが、どうして彼の『地獄耳』に入らなかったのか。こうなってしまっては、もはや老人は無力だった。
「――承知した」
 そう言って彼はなにやら杖を動かすと、出てきたときと同様に空間に切れ目をつくりだした。その切れ目に吸い込まれるように、彼の姿が徐々に消えていく。一瞬、フードの下にあった彼の苦々しい表情がマルクスにはみえた。
 テラのいた部屋に、静寂が戻る。
 割れた窓からそよそよと秋の風がふきこむ。カーテンがやわらかになびき、寂しく涼しげな夜の風景を演出している。外からはわずかに聞こえる虫の音と、人の声。もしかするとそれは、遠くで争っている警備兵達と侵入者のものかもしれなかった。
 マルクス夫人の部屋は、窓が割れているのと、少し床のじゅうたんが赤く染められていることを除けば、普段となんら変わったところはない。明かりはいつものように明るく部屋の中を照らし、素朴で古びた調度品が部屋の空気を落ち着いたものにさせている。大きな本棚も、小さなティー・セットも、どこにも乱れたところはない。いつもどおりの部屋だ。
 それをまったく違った雰囲気に変えてしまったのは、部屋にいる三人の人間だった。
 すでに力なく床に伏しているテラ。その横でおそろしい形相でかまえる騎士長マルクス。そして――。
 相変わらず涼しげな顔のまま、いまだ身動き一つしない女暗殺者。
 彼ら三人の姿が、マルクス邸の秋の夜の風景を一変させてしまっていた。
「貴様、どうやってここまで侵入してきた?」
 マルクスが口をひらいた。
「警備兵の監視の目をくぐり抜け、ボダ=ハの耳にも届かぬよう、こんなところまで。この部屋は邸のどの入り口からも遠いところ、つまり邸の中心部に位置しているのだ。入り口から変装してうまくもぐりこんだとしても、警備兵がいないような場所に一歩でもふみだせば、どこかでボダ=ハが気づくことができたはず。一体、どうやったのだ?」
 ここまでやれば十分すぎるというレベルにまで警備の網を張ったつもりだった。さらに邸内のわずかな音も聞き分けることのできるという地獄耳をもった異能の魔術師ボダ=ハの力も得た。しかしそれがいとも簡単に破られ、いまここに妻の亡骸とつきあう結果となったことに、彼は心底後悔するとともに、なにがいけなかったのかと納得できない気持ちがずっとうず巻いていた。
 しかし目の前の侵入者は、直立したまま、やはり何も返事を返さない。 
 マルクスは顔をしかめた。口を利かないのか。それとも、何かを待っているのか?
 彼は再び、口を開こうとした。
 しかしそのとき。
「うっ!」
 突然、彼の右足から、力が抜けた。
 がくっ、とひざが折れ、彼はとっさに剣を握ったままの右手を床に立てて体を支えた。
「こ、これは……」
 自分の体に起きている異変に、彼ははじめて気が付いた。
 よく見れば、自分の左腕がだらんと垂れ下がっている。彼は懸命に力を入れようとしたが、全く動かない。拳を握ることすら、いや、指を折ることすら、いつのまにかできなくなっている。
 そして徐々に、左足も――。
「いったい、どうなって……」
 腕も足も、いくら意識しても、いうことをきかない。
 彼は左肩にわずかに残る痛みを感じ取った。
「まさか――」
 この針に刺された傷。
 毒、か?
 最初、この部屋に入ったときに肩に受けた針。あの女が投げ放った針。それに、即効性の麻痺毒が塗られていた――。
「……少し、時間がかかったけど」
 その時。
 うなるマルクスの前から、確かに聞き覚えのある、はっきりした女の細い声が聞こえてきた。
 彼はなんとか膝立ちの姿勢を保ったまま、前を見上げた。ゆっくりと彼のもとに近づいてくる暗殺者の姿が見える。
「きさま……毒を……」
 世にも恨めしそうな表情で、マルクスはルナンと名乗っていた女の顔を見据えた。その憎むべき暗殺者は、彼の怒りに打ち震えた様子をみても何も感じていないのか、あるいはその素振りを見せていないだけなのか、色の薄い、ただ変化のないかすれた紫色の瞳を返すだけだった。
 マルクスはさらに云おうとしたとき、麻痺に侵されていた体を支えていた腰にもついに毒が行き渡ったのか、彼は右手に剣を握ったまま、崩れるように顔から床に突っ伏した。
「……はじめ、あなたがこの部屋に入った瞬間に、もう勝負は決まっていた」
 無様な姿をさらす相手を見下ろしながら、女はそうつぶやいた。
 肩に残っていた針の痛みさえ、もはや痺れて感じなくなってきている。彼は心の中で、何度も何度も、悔しさにうちひしがれた。
 女は、袖からすっと小型のナイフを取り出す。
「……メロウは、どこ」
「――だ、だれが、きさまなどに教えるものか……きさまなどに……!」
 首を横にし、必死に口をうごめかすマルクスに、彼女は云った。
「別館の、二階ね」
「……違う」
 マルクスの答えに、彼女は少ししてから、渇いた調子で云った。
「……嘘のつけない人ね」
「違う!メロウは、……娘は――」
 マルクスは、肝心なところで自分の性格が出たことに、唇をかんだ。
 完全に、この女のペースだった。
 どこの誰とも知れぬこの暗殺者ごときに、ネイル国直属の騎士長である自分が全く何もできないまま、こうして生殺与奪の権利を与えてしまっている今の状況に、彼は自分の力のなさにただただうなだれるばかりだった。剣と剣の闘いで敗北するのならまだしも、毒を用いられるという卑怯で姑息な方法で陥れられるとは。――それにしても、この毒はなんだ。たった細い針一本に塗られた程度の量で、これほど急速に全身の神経が麻痺するものなのか。こんなシロモノがこの世にあったとは、ついぞ聞いたことがない。この女、どこでこんな劇薬を――。
 彼の頭の中は、すぐ近くにいる暗殺者に対する謎で埋め尽くされていた。
 一体この女は、何者なのだ。
 怒りに我を忘れかけていた彼の中に、やや冷静さが戻ってきた。
 首を少し動かすと、妻の亡骸が彼の視界に入ってきた。あざやかなまでに一閃された切り口が、変わり果てた妻の喉元に見える。凶器は、ナイフだろうか。しかし女に返り血はついていなかった。すると、投げナイフか?私に放ったあの毒針のように――。
 そこまで考え、彼は目の前の光景が、記憶の奥底に眠っていたある映像につきあたるのを感じた。
 喉元を一閃された致命傷。わずかの時間で人の命を奪い去る魔手。
 それは、彼が目に焼き付けていた、あの三国会談での光景とうりふたつだった。
 ネイルのフィリップ、サガンのラミー、グリッグランドのアンヌーン五世。三人が暗闇の中で命を刈り取られたあの忌まわしい記憶。忘れもしない、そのときの三人の喉元に残った、鮮やかな傷跡。それと、いま妻にある傷とが、頭の中で重なり合う。
 まさか。
 この女が――。
 ネイル、サガン、グリッグランドを戦争の渦に引きずり込んだ、そして私の追い求めて続けていた――
 闇色の、死神。
 彼は思い直した。まさか、違う。あの死神は、屈強な男だったと聞いている。仮にそうでなくとも、こんな華奢な女が、おそらくこの邸以上に厳重に警備されていた中をくぐりぬけ、明かりのない中で三人の人間を一瞬にして殺めるなどという所業が可能なものか。妻への手口も、たまたまこの女のやり方が似ていただけだ。この女は、闇色の死神ではない。
 彼はそう決め付け、もうこの暗殺者に対する憶測をやめることにした。とにかく、いまはこの状況を脱しなければ。もし妻を殺され、私も殺されれば、娘は助かったとしても、これからどうやって生きていくというのだ?私は、生きなければならないのだ。
 右腕に力を入れてみた。まだわずかだが、動く。右腕だけ痺れの効きが遅いようだった。偶然だろうか、それともこれは、神が私にくれたわずかなチャンスだろうか。
 右手には青い水晶のはめ込まれた愛用の剣が握られている。望みはまだある。
「……娘に近づいたのは、この邸の内部を把握するためか」
 マルクスは、首を懸命に持ち上げながら、うなるように云った。首にまで若干、痺れが及んできているのが分かる。
「……だとしたら、なに」
「では、私に見せた警察局の証も、にせ物か」
「……あれは、本物」
「なに?」
「つくってくれた。警察局の人が」
 警察局の幹部には、彼と相対する開戦派の人間が何人かいる。マルクスはルナンを信用するにあたり、その点が気にかかっていた。
 彼らのうちの誰かが、この女の雇い主だ。そう彼は確信した。
「――国民の生活を守るはずの警察が、暗殺者を利用するとはな。いったい、どこまでが嘘で、どこまでが本当のことなのか……」
 マルクスは剣を持つ右手の握りをそっと変えた。剣に秘められた魔力を解放できるように。
「では、メロウに連れ添って祭りを楽しんだというのも、メロウの友達になったというのも、全て嘘、というわけなのだな?」
 マルクスは聞いた。もちろん、嘘なのだろう。彼は返ってくる女の言い分が推測できた。この女は残忍で、卑劣で、人をだますということを平気でやってのける人間に違いないのだ。
 そのマルクスの問いに、女は、短く答えた。
「なぜ」
 ――――。
 なぜ?
 一瞬、マルクスは戸惑った。それだけ言われても、なんと答えていいのかわからない。
 彼は、女の次の句を待った。
 すると、きわめて冷淡に、女は告げた。
「なぜ私が、メロウの友達にならなくちゃいけないの」
 ――やはり。
 その言葉に、マルクスは強く決意を固めた。
 このままでは、娘があわれだ。あまりにむごい。
 この女、必ずこの場で仕留める。
 この暗殺者をここで逃せば、またこの世に憎悪と怨恨をもたらすに違いない。
 マルクスにとどめを刺すために、女は彼のすぐ側まで近づいてくる。この距離ならば――。
 右手の剣に秘められた、風の刃。よけられまい。
「……ボダ=ハは、どこにいったの」
 マルクスを見下ろしながら、女が云った。
「あいつか。もうすでに娘のところにいき、逃がす手はずを整えているだろう。残念だが、きさまの思い通りにはならん」
「……そう」
 女はアメジスト色の瞳をやや思わしげに細める。
 そして、色のない表情のまま、彼女が手にしたナイフをもちあげたとき。
「くらえ!」
 マルクスは渾身の力で、剣の魔力を解き放った!




 
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