死神と女神の狭間 第一章  

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 はじめにルナンがその豪邸に入ろうとしたとき、何人もの警備兵が不審の目をむけた。それは玄関にいた兵士にしても同様で、メロウが当然のように扉に手をかけると、堅い表情をした背の高い警備兵はその手を止めながら、ルナンににらみをきかせた。
 メロウは、ルナンは自分を救ってくれた恩人だと、そのお礼がしたくて連れてきたのだと玄関の兵士に何度もかけあったが、彼は堅苦しい顔をして「ご主人様がこられるまでしばしお待ちを」の一点張りだった。
「ふんだ。私はパパのひとり娘なのよ。なんでいうこと聞いてくれないの!」
 それでも兵士は、ご主人様のご命令ですので、と言うばかりで、らちがあかない。メロウはしかたなく、ぶぜんとした表情でルナンにつげた。
「ごめんね、ルナン。最近、ちょっとパパがぴりぴりしてて、お客さんがきてもなかなか家の中にいれようとしないの」
「いえ、いいの。お構いなく」
 それにしても、とルナンがメロウの方を向いてこぼした。
「あなたがマルクス様の一人娘だったなんて、おどろいたわ」
 その言葉とは裏腹にあまり驚きのこもった口調ではなかったが、しかしメロウは彼女のことばに素直に反応を示した。
「ごめんね、だまってて。でもいっしょに遊ぶのに、騎士長の娘だからって遠慮されるの、いやだったから」
 そう言い、メロウはすこし自虐的に笑みをつくった。それとともに、胸の中に小さく暗い影が落ちる。
 騎士長といえば、このフランセの町があるアーヴァンク州の対外防衛を一手に担う“狼剣騎士団”を統括する役職――つまりは、国全体からみてもかなりの権力を有する高位の身分である。そんな立派な家柄にあるメロウは、他人からの気遣いやうやうやしい態度に接する生活が日常となっていた。いいつければ何でもいうことを聞いてくれ、「気に入った」といえばみなが感謝の言葉を述べ、「気に入らない」といえばみなが平謝りする、そんな人間たちに囲まれながら、彼女はこの家でなに不自由なく育ってきたのだった。
 それだけに、メロウの周りには大きく欠けているものがひとつあった。
 メロウは小さくうなずいた。彼女なりの小さな決断をこめて。
「わたしね、じつは――」
 メロウが自信のない目をしてルナンに告げようとした、そのとき。
 二人の前にある玄関の扉がゆっくりと開かれ、メロウは胸の内からしぼりだそうとした言葉をさえぎられてしまった。
 さきほどの堅い表情の兵士によって大きくあけられた巨大な扉の奥から、引きしまった顔をした背の高い男が現れる。
 マルクス=レンシンク。この邸の主人であり、メロウの父である。
 耳元までたくわえられたあごひげ、しっかりと直立した上体、油断のない厳しい顔つき。さらに金の飾りの入った派手な藍色のスーツを着込み、ズボンはよく手入れされていて、しわを見つけることすら難しい。誰もがひと目で高い位の人物であるとわかるくらい、その大柄な貴族・マルクス=レンシンクは、周囲に圧倒的な威厳を放っていた。
 玄関に立つメロウとルナンをみて彼は、よく通る低い声で言った。
「遅いぞ、メロウ。外出時間は三時間と言っておいたはずだ」
 にらみ下ろす彼に、メロウは反抗するように大きなブルーの目でまっすぐ見上げた。
「そんなの、パパが勝手に決めただけでしょ!」
「勝手とはなんだ。きちんと時間は守るようにと、ここを出る前に約束したはずだろう」
「だって、せっかくのお祭りなのに、たった三時間で帰ってこられるわけないよ!」
 真正面から反抗するメロウに、父マルクスはあきらめたように軽くため息をつきながら、今度はいくぶんおちついた目をメロウの横にいる女性に向ける。
「こちらは?」
 きかれ、メロウがとっさに答えた。
「ルナン。チンピラに捕まってた私を助けてくれたの。あっ」
 云ったのちに、メロウは心の中で舌打ちした。
 ――チンピラに捕まって――
 祭りで危険な目にあった。それを父に告げたのはまずい。
「チンピラ?メロウ。それはどういうことだ」
「ちょ、ちょっと、ちょっかいだされてただけ――
「ちょっかい?まさか、その男たちになにかされたんじゃないだろうな。そうなのか?」
 メロウは上手い言葉がみつからず、ただ目線を父からそらすしかなかった。
「やはりそうか。まったく、これだから祭りはろくなことがないのだ!」
「ち、ちがうの!これは……その、男の人たちがね、私に『ちよっかい』っていう出店で売ってたものをおひとついかがって……ああ、なにいってるのわたし」
 メロウはあせって意味不明な言い訳しようとしたが、父は娘の言葉をさえぎってきっぱり切り捨てるように言った。
「だめだ。明日からは家から一歩も外出してはいかん。言っただろう、少しでもなにか危険なことがあれば、外出禁止にするからと」
「そんなぁ……」
 父の即断に、メロウの表情はみるみる崩れていく。
「マルクス様」
 と。
 その場をおちつかせるように、静かな声でそう云ったのは、ルナンだった。
「ネイル国アーヴァンク地方警察局・中央捜査部のルナン=クリシーと申します」
 よどみなく自らの肩書きを述べると、彼女は内ポケットから、なにやら細かい文字が敷きつめられた紙製のカードと、白いレースの入ったブローチをとりだし、マルクスに見せた。
 父マルクスは彼女の肩書きを聞いて一瞬強ばった表情をみせたが、彼女に渡されたカードとブローチをうけとって確認すると、やや落ち着いて小さくうなずいた。
「なるほど、たしかに」
「今日は休日で町を歩いていたのですが、たまたま男二人に話しかけられているメロウさんをおみかけしたので、身分を明かして少し話を聞いてみたところ、彼らはメロウさんに少し道を尋ねていただけだと言いました。ただ、彼らの行きたがっていた場所をメロウさんもご存知なかったため、道を教えるのにお困りになっていたらしく、私が代わりに彼らに道を教えたのです。そうしたら、メロウさんが私にお礼を、とわざわざここまでつれてきてくださったのです」
 冷静に事実を曲げ弁護する彼女に、落ち着きを取り戻したメロウはつくづく感心しながら、すぐに口裏をあわせた。
「そ、そうそう!歩いてたら偶然、道がわからない、っていう男の人につかまったの。そしたらあの人たち、『すみよし亭』とかいう宿、どこにあるか知ってますか、って聞いてきたから……」
 完全に思いつきの名前を出しながら必死に笑顔をつくり、メロウはなんとか祭りの最終日である明日の外出禁止を阻止しようとした。
 父は彼女に不審の目をむける。メロウは、心の中で汗をかいた。
 ……が、最終的にルナンの言葉は父に聞き入れられたようで、
「――この方がそうおっしゃるなら、信じよう」
 警察局の者である証拠のカードとブローチをルナンに返し、マルクスは神妙な顔つきになった。
「私の娘がご迷惑をかけたようで、もうしわけない。そういうことなら、私からもぜひお礼をさせていただこう。さあ、どうぞ」
「……ありがとうございます」
 うやうやしく頭を下げて邸内を促すマルクスに、ルナンは謙そんしつつ平然と応じる。
 その二人の自然なやりとりをみて、メロウは密かに驚くところがあった。
 父が、ルナンに頭を下げている。





 二人はマルクスの先導で、邸内の応接間に迎えられた。豪邸の中は金色の線に縁取られた白壁が並び、堂々たる高級感がみてとれる。大きく澄んだ窓からは夕日が差し込み、室内全体に風格と余裕をもたらしている。さらに、そこら中に配置された彫像や名画の数々。噴水のある大きな庭。廊下には巡回中の警備兵がいく人も通り過ぎ、そのひとりひとりがメロウに声をかけてくる。彼女にはもはやなじみの光景であったが、これは警察局の者とても、一度見れば決して忘れることのできない、権力者の贅を尽くした風景に違いなかった。
 しかしルナンは、その目移りしそうな邸内にさえ心とらわれる様子をみせず、ただ去っていこうとする父マルクスに「またあとでお話を」と涼しく伝えただけだった。
「いつでも、私は部屋にいるので」
 そういい、マルクスが丁重に部屋から出ていく。
 父の足音が部屋から遠ざかっていくのを確認して、ソファに座りかけたメロウはがまんしきれずルナンにつめよった。
「ね、ねえ!いまの、なに!?」
 とつぜん勢い込んできかれ、ルナンはけげんな顔をした。
「なにって、なにが」
「だ、だって、パパがルナンに頭を下げたんだよ!?私、びっくりしちゃった!パパのあんなところ、初めてみた!ルナンって、ほんとはもしかしてすごくエラい人なの?」
 興奮するメロウに、ルナンは落ち着くようさとした。
「私が客だから、それに対してマルクス様が最大の敬意を払って下さっている、ただそれだけのことだと思うけど」
「でもすごいよ!パパ、いつもなら他の人には命令ばかりしていつもえらそうにしてるのに、初めて会った人に頭を下げるなんて。いまの見て、なんだかスッとしちゃった」
 両腕を寄せ、メロウはふかふかの椅子の上ではしゃぐ。彼女は、ルナンを前にしてうやうやしくするさきほどの父の姿を何度も頭に思い描いた。お国仕えの騎士長で威厳と自尊心の塊であるいつもの父がこっけいにみえて、おかしさがとまらなかった。
 メロウは、もうすぐママが飲み物をもってくると思うからと言い置き、ルナンと応接間で話し始めた。
 まず、自分のこと。メロウ=レンシンク。ネイル国の第二都市フランセの騎士長マルクス=レンシンクのただ一人の跡取り娘。父は息子がほしかったらしいが、母の健康があまり思わしくないためこれ以上子を産むことができなかった。でも父は国内では権力がそれなりにあり、お金にもそれほど事欠かなかった。そのため、騎士長にはなれない娘にレンシンク家としてふさわしい教養を身につけさせようと、国営学校には行かせずにずっと専門の家庭教師をつけさせている。父は自分をむりやり首都ネイルの司書官にしようとしているが、自分は全くそんなものになる気はない――といったことを、ルナンに話した。
「ひどいのよ!毎日毎日書物の勉強ばっかりやらされて、ちっともあそばせてくれないんだもの。たまにママが買い物にいくって家の外にだしてくれるくらいで……。今日だって、去年からずっと頼み込んでいてやっともらえた外出許可だったの。だから、ものすごく楽しみにしてお祭りにいったのよ。最初、あのチンピラに捕まったときはどうなるかと思って恐かったけど……。でもそれがあったからルナンにも出会えたし、お祭りも二人でいっしょにまわっていろいろお買い物もできたし、いろんなものがみられたし、そうそう、的屋で覆面男もやっつけたし――」
 メロウは今日起きたことをひとつひとつ頭の中で思い返してから、ルナンの目をまっすぐにみつめた。
「ルナン。私、こんなに楽しい日、いままでなかった。ほんとよ、とっても楽しかった!」
 そう、ルナンの瞳に呼びかける。彼女との出会いを喜ぶ気持ちを、メロウは全面に表していた。
 椅子の横に置いたトートバックから、覆面男曰く『ゴム底つきダルマ人形【鳥形】』という鳥の人形を取り出し、その戦利品をしげしげと眺めた。バッグには、覆面男の店からルナンが(メロウの出資のもと)あらいざらい取り去った高価な景品の数々がつまっている。メロウはこの景品の数々をルナンが次々に倒していったときの光景を思い出し、うきうきした気持ちになりながら、まくしたてるようにルナンにしゃべりかけた。
「ルナンって、ほんとにすごいよね!強いし、かっこいいし。力で勝負してもパパよりルナンの方が強いかも。なんたって、パパに頭さげさせるくらいなんだから」
「それはでも……」
「いいの!パパなんて、もっとルナンにいじめられればいいのよ。いつもエラソーにしてるんだから。ああ、私もルナンみたいに強くなりたいな……」
 メロウがつぶやく。ルナンはなにもいわず、ただ彼女からなにげなく目をそらし、床の方へ視線を下ろした。ただのけんそん?それとも、はずかしがっているのかな。メロウは彼女のちょっとしたしぐさをそうとらえ、ルナンにもそういうところがあるんだとひとり関心を寄せた。
 少しして、メロウの母親テラ=レンシンクが部屋に入ってきた。彼女は丁重な物腰でルナンに軽くあいさつと感謝をしたあと、メロウの希望したミントティーの入ったポット二つと菓子を二人の間にあるテーブルにおいた。
「ママ、今日のお祭り、すっごく楽しかった!」
「あらそう。それはよかったわね。何かいっぱい買ったの?」
 母が娘と同じブルーの目を、メロウの横にあったぎゅうぎゅうづめのバッグに向けて言った。その口調はとても穏やかで、父マルクスとは似ても似つかぬ、まるで正反対のやわらかい話し方だった。
「これ?半分くらいはそう。でももう半分は、ルナンのおかげなの」
 メロウは的屋のいきさつを簡単に説明し、店からめぼしい景品を根こそぎもっていったことを報告した。母は大きくうなずきながら、メロウのいうことに深い関心を示す。
「あらあら、お店の人もかわいそうに。じゃあ、ルナンさんはとてもお強い方なのねえ」
「そう!けいさつの人!」
「あら、そうなの?どうりで」
 再び母は、娘の面倒を見てくれてありがとう、と控えめな調子で述べ、ルナンに頭を下げた。そうして、ゆっくりと部屋を後にする。
 きれいな曲線を描いて織り込まれた砂糖菓子を右手で拾いながら、メロウはさきほどの父のときとは違った、やわらかな顔をして言った。
「ママ、よく私を家の外に出してくれるの。買い物するときとか、知り合いの家に用事のあるときとか、なにか理由をつけて。パパと違って、いままで怒ったところなんて一度も見たことないし、いつも私に優しいのよ。あんまり体がよくないから、ママも外出できる日はそんなに多くないんだけど……。家にいるよりずっといいから、私はママに誘われたら絶対ついていくの」
 そうして菓子を口にほうりこむ。ルナンはミントティーに口をつけながら、戸口をすこしだけ見やった。
「……たしかに、優しそうな雰囲気の方だったわ」
「でしょ」
 メロウは母のだすこの菓子が以前から好きだったが、今日はそれが一段とおいしく感じられた。きっと、人とおしゃべりしながら食べているからだと、彼女は思った。
 その後、二人はずっとたあいのない話をして時を過ごした。生活のこと、服装のこと、仕事のこと、趣味のこと……。仕事って大変?食事はいつもどうしてるの?そういえば何歳――えっ、私とニ歳しか違わないんだ。二人の会話は、祭りの大通りでもよく聞かれるようなとりとめのない、きわめて一般的な会話だった。そしてそんななんでもないことが、外の人間としゃべる機会がほとんどないメロウには、この上もなくうれしく感じられた。
 そうして話も一段落した後、メロウはすこし間をおいて、自分とあまり歳の変わらない目の前の女性を眺め見た。
「ルナン、あのね」
 やや不安げな表情で、うちあけるように彼女は小さな声で告げた。
「ルナンのこと、私、友達だと思っていい?」
 いわれ、ルナンは一瞬、表情を固くしたようにみえた。それを確かめたメロウはあわてて、
「あ、ごめんね。へんなこと聞いちゃって……」
 とつくろった。が、ルナンはその涼しげな顔を特に崩すことなく、云った。
「それはべつに、構わないけど……」
 ルナンの言葉を聞き、メロウはぱっと顔を明るくさせた。
「ほんとに?」
「……ええ」
「やったあ!」
 メロウは思わず椅子から立ち上がる。そしてテーブルごしにルナンの両手をとり、ぶんぶんと上下にふった。
「ありがとう、ルナン!よかったあ。私、ダメだなんていわれたらどうしようって――」
「そんな、感謝されるほどのことでも……」
 それに首をふり、メロウはわずかに微笑んだ。
「ううん。私、ルナンがもし私の友達になってくれたらどんなにすてきかって、ずっと考えてたのよ」
 そこまで言うと、彼女は少し声のトーンを落とした。
「ほんというとね、私、友達がいないんだ」
 やや落ち着きを取り戻し、メロウは立ち上がりかけた腰を再びふかふかの椅子に沈みこませた。
「ルナンが、人生で最初の、友達。ほら私、パパに家庭教師をつけさせられてるっていったでしょ。だから学校に行くこともなくて、家の外にも出ないから、友達なんてできなかったの。それでも努力したのよ。ママと知り合いの家にいったときに、歳の近い向こうの人とおしゃべりしたり。でも一度や二度、それもあいさつ程度にちょっと話すだけじゃ、お互いいろいろ知り合うこともできないし……。だから私、決めてたの。今日はぜったい、祭りで友達を見つけるんだって。一度きりじゃない、これからも私とおしゃべりして、一緒に遊んでくれるような人を――」
 メロウはもう遠慮することなく、歯切れよく言った。「ルナンさえよかったら、いつでも私の家に来ていいから!来てくれたら、なんでも用意させられるし……あ、でも今度は私のほうからいかないとだめかな」
「それはいいけど」ルナンが口を開く。「メロウはいいの?私みたいな人間がこんな豪邸を勝手に訪れたりして」
「ぜ〜んぜん。いつでも来て!パパがなにか口出ししても、私、何とかするから!とりあえず、いまルナンにしてあげられることって、ない?それくらいしか私、今日のお礼できないから」
 メロウはルナンのことをはっきり『友達』と言えたことで、少し胸のつかえがおりた気がしていた。勢い込んで、彼女はルナンに笑顔を向ける。
 少し考える素振りをして、ルナンはそっと云った。
「じゃあ、この家を案内してくれる?いろいろきれいなものが、みられそうだから」
「いいよ!」
 メロウは元気よく、ルナンとともに部屋を連れ立った。いまは初めての友達といっしょに過ごす時間を、なによりも大事にしたかった。いままでの自分の人生で欠けていた、大切な時間。それをこれから少しずつ、埋めていきたい。
 自分の部屋にいるトモダチにも、このことを報告しないといけないな。メロウはふと、そんなことを思った。





 メロウはルナンといっしょに、これまで十七年間ずっと自分と家族が過ごしてきた広い邸内をつぶさに見て回った。中央庭園の噴水、銅像の置かれた広い廊下、豪華なシャンデリアの吊られた食事部屋、赤い絨毯(じゅうたん)と大きな弦楽器の置かれた宴会場、数え切れないくらいの数が並ぶ客室……。それらはすべて、メロウにとってはつくづく見飽きたものだった。だが彼女は、それらを初めてみるルナンに、そのひとつひとつを懇切丁寧に紹介した。他人に自分の邸内のことをしゃべるのは、もちろん彼女にとって初めての経験だった。
「この絵のがくぶち、私がまだ小さかった頃にふざけてたら、頭をぶつけてすこし角が欠けてるの」
「ここは、警備兵の人たちの宿直室。一度ここの人たちとこの部屋で遊んでたら、パパにものすごく怒られたことがあるのよ。で、その人たちはみんな次の日にクビ。ねえ、ひどいとおもわない?」
「これはね、裏庭に抜けられるとびら。パパにみつからずに庭にでたいときには、いつもここをつかってるの。ママから教えてもらったんだけど……あ、パパには内緒にしててね」
 彼女が話すと、ルナンはあいづちをうちながら、時折興味深そうにいろいろ聞いてくる。警備の人たちと何をして遊んでいたの、庭に出るだけでも怒られたの、などなど。最初は家の紹介などしてもルナンにとってあまり楽しくないのでは、と不安だったメロウも、なんとかルナンの興味を引き出せたらしいことに、ほっと胸をなでおろしたのだった。
 自分に対する相手の反応ひとつひとつが気になる。それは、今しがた知り合った相手と話し始めるときには――人によって程度の差こそあれ――だれしもがもつ緊張である。ことに彼女、メロウにとっては、自分に対してどんな態度をとるのか分からない相手と話した経験がこれまでにほとんどなく、その意味ではルナンとの会話はとても新鮮で、緊張感に富むものだった。
「この画は?」
「これはねー、ママがボーギーで商人から買ったって言ってた。『或る戦士の肖像』っていうタイトルの」
「……傷だらけの戦士。これは――フレッチ・マルゴーかしら」
「そう!ルナン、よく知ってるね!グリーグの絵描きさん。ルナンってもしかして、画に興味があるの?」
「そう――でもないけど。ただ、これのレプリカがうちの局に飾ってあったから。これは、オリジナル?」
「うん!ママが職人さんに確認させたら、本物だって。ママ、フレッチが大好きだから、家の中には他にも何枚かフレッチの画があるの」
「そうなの」
 こうしてルナンが少し感心したそぶりをみせただけで、メロウはうれしくなった。それは、メロウが知らない人との出会いにどれだけ飢えていたのか、そしてどれだけ、彼女がもっと多くの人から好かれたがっていたのかを示していた。
 そうして二人で邸内を回っていると、警備兵ではない、一風変わった者がむこうから歩いてきた。
 メロウはその人物が視界に入ったとたん、表情を少し堅くした。
 一風変わったその者は、この豪邸の中にあって、異質だった。
 老いた男。全身ローブにつつまれ、顔はフードに隠れてはっきりしない、木製の杖をついた背の低い老人。冴えない風体のその不気味な姿を、メロウはこわばった表情でみつめる。
 それまですれ違う人全員に元気に声をかけてきた彼女も、このときばかりはあまりその気になれず、ただローブの者の方を見ながら、その横を早く通り過ぎようとした。
 それをみてとったのかどうか、老人は二人とすれ違いざま、メロウに話しかけてきた。
「……わしの顔に、何かついておるか」
 一瞬かたまって立ち止まったメロウは、つとめて明るい調子で云った。
「う、ううん。べつに」
「そうか」
 しわがれた調子でそれだけ云うと、老人はフードの陰からのぞいてみえる乾いた口元に笑みを浮かべ、ヒッ、ヒッ、と小さく声を発した。そしてそのまま、二人のわきを通り過ぎていく。
 その薄気味悪い様子に、メロウはただ顔をしかめるしかなかった。
 ルナンは相変わらず冷静な顔を崩さず、メロウに尋ねた。
「あの方は」
「あのひと、パパがこのあいだ雇った人」
 そういうと、メロウは不機嫌そうに眉をひそめた。
「すごい力のある人なんだ、って前にママが言ってたんだけど。あ、最近パパが外の人にぴりぴりしてるって話、したよね?それで雇ったんだって。でも、あの人が何をする人なのか、どんな人なのか、まだ私、よく知らされてないの」
 メロウはルナンにむき直って云った。
「とにかくあの人、私とあんまりしゃべってくれないし、ちょっと近づきにくいっていうか、コワい感じがして……。ママに今度どんな人か、詳しく聞かなくっちゃ」
「お名前は?」
「ボダ=ハ。南のミコールから来たんだって。魔法使いの国の。あの人も魔法使いじゃないかな。ほら、見た感じが」
 メロウは両手で、フードをかぶっているしぐさをした。
「ちょっとクセのありそうな人だし。それに魔法使いの人ってみんな、なにか隠し持とうとしてコートを着ている人が多いって聞いたことがあるの。水晶とか、巻物とか。あの人も杖をもってたし。杖っていえば、魔法使いでしょ?」
 ルナンは小さく「そうね」と苦笑してから、メロウに聞いた。
「いつもはどちらに?」
「いまの人?パパの部屋の横。だからパパの部屋にいったら、なにか深刻そうな顔してあの人とパパが話してるのを、よく見かけるの。パパもあんまりあの人のこと、好きじゃないみたいだけど。あ、パパの部屋って、ちょうどこの先なんだ」
 メロウが立ち止まって父マルクスの部屋を指し示す。廊下の突き当たりにある立派な扉。その両脇に、警備兵がひとりずつ、油断のない顔でそびえるように立ち並んでいる。
「ルナン、パパに話があるんだっけ?いまならパパ、いると思うけど、いく?」
 そうメロウが言うと、ルナンはやや考えてから答えた。
「……そうね、それじゃ」
 ルナンの言葉にメロウはうなずくと、彼女を連れて兵のところまでいこうとした。
 そのとき、とつぜん二人の背後から、若い青年の声がひびいた。
「メロウ様!」
 その声を聞き、メロウはすぐさま後ろを振り返った。
 銀色の鎧に赤いマントをつけた、背の高い金髪の青年。警備兵の身なりではあるのだが、他の者よりも肩や腰の金具にいくぶん目立った金飾りがついており、そして長剣のおさまる鞘は特に複雑な印が施されている。明らかに、他の兵よりひとつ位の高い身分にある者がつける装備だった。
「ファル」
 メロウは喜んで手をふり、すたすたと彼の方に歩いていく。
「どうしたの」
「メロウ様、いま司書官の方がこられて、書庫の契約書類をいただきにきたと……」
 そう青年がいったとたん、メロウはおもわずあっと声を上げた。
「わすれてた!今日だったっけ?まだなんにも書いてないのに……どうしよう」
「また明日、こさせますか」
「ううん、なんども来てもらうの悪いし、いまからとってくる。あっ、ファル」
 多少あわてつつ、メロウはファルをルナンのところまでつれていった。
「ルナン、このひと、うちの家の警備隊長してるファルさん」
「はじめまして、ルナンさん」
 そう云ってファルはうやうやしく頭を下げた。
「で、こっちが友達のルナン」
「はじめまして。ルナン=クリシーと申します」
 そしてルナンも軽く礼をする。メロウが『友達』としてルナンを紹介したことにファルはかなりの驚いた様子で、それを確かめると、メロウはルナンのことを早く彼に話したくてしかたなかった。
「ファル、ルナンって何している人だと思う?けーさつ!警察の人なのよ!」
「えっ、警察局の方なんですか」
 さらに驚いた顔を見せるファルに、メロウはルナンのことを胸をはって自慢したくなって、
「そうよ!まつりで私をたすけて……あ、たまたま道……道を聞いた人が、ルナンだったの」
 と、また本当のことを云いそうになった。あわててメロウがつくろったため、さきほどのうそがやや形を変えてファルに伝わったものの、彼はまったく疑うことなくうなずくだけだった。
「そうなんですか。それは――」
 彼はさらになにか言いたそうにしたが、それをのみこみ、今度はルナンの方をみて云った。
「まだメロウ様とそれほど歳が離れていないようにお見受けしますが」
「うん!二歳しか違わないの」
 メロウの言葉にまたファルはうんうんと感心する。その彼へ、今度はルナンが口をひらいた。
「ファルさんも、随分若く見えますが」
「わたしですか?今年で二十四歳です」
 ルナンも、ファルに興味を持ったようだった。
「二十四歳で警備隊長?レンシンク家のような大きな邸の警備隊長なんて、なかなかなれるものじゃないと思うのですが……よほど優秀なんでしょうね」
「いえ、私など、まだまだ未熟者で……ただ、この家に少し長くつとめさせていただいているので、マルクス様のご恩を預かっただけでして、私にはおそれ多い役職です」
 メロウが口を挟む。
「ファルって、私が十歳の頃からこの家にきているのよ。それで、むかしからよく私と遊んでくれてたの。あ、じゃあファル、ルナンをパパの部屋までお願いね。わたし、書類を渡してくる」
 そういって、メロウはルナンをファルに任せ、自分の部屋までかけていった。
 少し走ったところで一瞬ふりかえると、ルナンを父の部屋へうながし、歩き始めるファルの姿がみえた。
 うれしさがおさえきれないという様子で、メロウは嬉々としながら、また自分の部屋へ向かい始めた。私に友達ができた、と言ったときのファルの驚いた顔が、メロウの頭の中から離れなかった。


 
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