死神と女神の狭間 第ニ章  

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 後


 黒髪の女が、消えた。
「――?」
 いままでたしかに目の前にいた女。それが、どこにも見当たらない。
 ダグラスはほんのわずか考え、そしてすぐに、真上を見る。
 リースリングのやり方。デュデックが云っていた、気をつけるべき彼女のやり口。それにダグラスは気づいた。
 急に視界から消えたと思った瞬間、自分の真上に飛び上がり――
 そしてナイフを――
 だが。
 そこにも、彼女の姿はやはり見えない。
「――どこだ……?」
 彼は大きな首をすばやくめぐらせる。左にも、右にも、リースリングはいない。
 後ろか――?
 ダグラスが振り返る。
 それとほぼ同時だった。
 彼の右太ももに、見覚えのある細く平たいナイフが深々と突き刺さったのは。
「――うっ!?」
 しまったと、ダグラスはほぞをかんだ。
 リースリングの姿を、彼はそこにようやく発見した。
 ダグラスは信じられなかった。
 リースリングが、遠い。
 いつのまにか、彼女はダグラスの背後に回っていた。それも大剣など全く届かない距離に離れて。
 そしてそこから、切らしたはずのナイフを再び投げつけてきたのだ。
 ダグラスの右足を激痛が襲う。思わずひざを折ってしまう。
「ダグラス!」
 デュデックとほか数名がすぐに彼に駆け寄ってきた。リースリングはナイフを投げた姿勢から直り、そのまま動かずに彼らの様子をただじっと見ている。
「大丈夫か、ダグラス!!」
「……くそっ!!」
 ダグラスは剣をもったまま右拳を地上にたたきつけた。彼の大腿部の真ん中に、ナイフの刃が深く刺さっている。これでは歩くこともままならない。それは、ダグラスの敗北を意味していた。
「ダグラス、これ以上無理するな。ここらで引こう」
 デュデックが進言すると、ダグラスは悔恨の念を顔に表して云った。
「くそ……だが、どうしてだ。あの女はなにを……」
 ダグラスは右足に突き刺さったナイフに手をかけると、思い切り引き抜く。激しい痛みに、ダグラスの顔がいっそう険しくなる。
 彼はその顔のまま、離れたところにいるリースリングをにらみつけた。彼女はアメジストの目を向けて涼しい顔をしていた。――あるいは、そう装っていた。
 そして、彼の視線がいやがおうにもひきつけられる。リースリングの左腕。
 袖は切り裂かれている。だが、そこに見えるはずの赤い血は一滴も流れ出ていない。
 デュデックもリースリングの挙動に注意しながら、つぶやくように云った。
「あの女……消えた」
「なに?」
「消えたんだ。あいつ……お前の剣をあの左腕で受け流してからすぐに……。そして一瞬あとにはお前の背後に現れて、地面に落ちていたナイフを――お前がはじき返した分だ――それを拾って、お前に投げつけたんだ。声をかけて教えてやる間もなかった」
「消えた――」
 デュデックにそう云われても、なおダグラスには理解できなかった。
 剣の刃を生身の腕で止め、目の前から一瞬にして消え去る技を持った人間。さらに人の背をはるかにこえるジャンプも可能な人間――
 それは、ダグラスの中ではもはや人間ではなかった。
「……死神」
 悪夢の中にいるような面持ちで、ダグラスは云った。彼女を形容するには、それくらいしか言葉が浮かばなかった。
「とにかく、やつも追い討ちをかけてくる様子はないようだし、ここはいったん引こう。タウラスも見つかったと、仲間からさっき報告があったから」
「タウラスが――そうか」
 ダグラスが左足を頼りに立ち上がろうとする。そばにいた背の高い団員が彼に肩をかす。彼の右足が、赤い血でにじんでいる。人間ならば当然出ているはずの、赤い血で。
 ダグラスは思った。
 リースリング。間違いなく、人殺しのプロ。だがそれだけではない。自分たちの常識を超えたものを、あの女は備えている。
 ダグラスは最後に声をかけた。
「リースリング!俺は――お前を絶対に許さん。俺たちの仲間を殺したこと、終生忘れん――!」
 それだけ云い、ダグラスは黒髪の女を突き刺すように凝視した。
 彼女のアメジストの目は、ダグラスの刺すような視線を受けていくぶん色を濃くしたようにも見えた。だがそれもすぐに消えてなくなり、あとには暗い闇と虚無が彼女の両の瞳に落ちただけだった。
 ダグラスはその彼女の表情に、なんともいえない感情を覚えた。怒りではない。挑戦的なのでもない。ただ闘った相手のぼやけた肖像しか映っていないような、彼女の深い紫色の目。様々な感情を全て砕き平らにならしたかのような、何色でもない彼女の目つき、顔つき。
 その向こう側にある意識がどういったものであるか、ダグラスにはついぞ読み取れなかった。
 注意深く、『グレアムの兄弟』の前から去っていく鉄剣団の団員たち。彼も、ようやくリースリングに背を向ける。
 後ろからデュデックが用心する。見る影もない『グレアムの兄弟』たちをながめながら。
 ハーンはもう虫の息。リースリングはおそらく雇われ者。ほかのチンピラたちはかぞえるほどしか残っていない。『ダグラスの兄弟』は滅びた、といってもいいだろう。
 勝敗は、決したのだ。
 団員たちは次々と去っていく。そして戦いの終わった森の中で、動くものの気配の数はそう多くなかった。
 一方的な早朝の戦い。油断し切っていた『グレアムの兄弟』は抵抗する間もなく次々に倒れた。タウラスを助けることがこの戦いの最重要課題だったが、それもタウラスがあっさり牢屋から逃げられたおかげでなんなく果たすことができた。自分たちにとって、望んだとおりの結末といえた。
 ハーンらはいったいこの後、どうするつもりだろう。
 デュデックはふと思いながら、ゆっくりとした足取りで『グレアムの兄弟』から離れていった。





 後に残されたのは、男たちのむざんな姿だった。
 気味が悪いくらいに静まった宿営地。鉄剣団が立ち去るあいだ、ハーンのもとに集まった仲間はわずかニ名だけだった。
 遠ざかる鉄剣団をみながらしばらく動かなかったリースリングが、ゆっくりとハーンのそばに歩み寄る。やはり負傷しているためか、やや歩き方がぎこちなくみえた。
 地面に横向きに倒れているハーン。すっかり元気のない首領の姿に、周りのニ名の仲間たちは声もかけられない有様だった。
 リースリングは残った男たちに言い、近くの大きな石の下に彼を運ばせた。上半身を起こし背を石に当てたところで、ようやくハーンは口を開いた。
「……くそ、なんだかさみい。いてえし寒い。最悪だ、ちくしょう」
 彼が倒れていた地面には、かなり大きな血だまりができていた。いまも少しずつではあるが、服から赤いものがしみだして土を汚している。出血による寒気が、じわじわと彼の精神をむしばんでいた。
「……へへ、鉄剣団を倒し、この森に自分の国をつくるんだと言っていたのが、なんてざまだ――」
 腹の奥底からしぼりだしたような、彼の心からの言葉だった。そこへ、リースリングが声をかける。
「……傷を治さないと。このままだとあなたは――」
「いいんだよ、ほっとけ。こんな傷、なめてりゃ治るんだよ」
 なかば投げやりに云うハーンに、リースリングは静かな口調で尋ねた。
「……医療器具のあるテントはどこ」
「だからいいっていってんだろ。わからねえ女だな……」
 彼はひどく疲れた顔をする。リースリングはそれを無視し、近くの男に布や包帯などの一式を取りにいかせた。二名の男が駆け出したが、彼らはどこのテントにも入らないまま、どんどん遠くへいってしまう。
 ハーンはその行く末を見ようともせずに云った。
「……逃げたな、やつら」
 つぶやくハーンに、リースリングは少しだけ目を細くする。
 彼女は靴のくるぶしあたりに手を差し入れると、そこからごく細い刃物を取り出した。そしてハーンの足あたりの布地を切り裂くと、適当な長さに切り分け、ハーンのわき腹の傷にあてる。その間、彼はときおり体を震わせるだけで、文句ひとつ云おうとしなかった。
 やがて、ハーンは青ざめた顔で云った。
「……ああさみい。なんでこんなに寒いんだ……痛みになら、いくらかでも我慢できるってのに……。そういやリースリング……お前もケガしてるんじゃねえのか。左腕……」
 彼はリースリングの切り裂かれた左腕を少しだけながめた。ただそれだけで、彼は血の出ていないことに疑問をはさまなかった。
「あと肋骨あたりか。もしかして、ラスターにやられたのか」
「別に……大丈夫」
 リースリングはそれだけ云い、ただ黙々と作業を進める。ハーンは「かわいくねえな」とごく小さく云うだけだった。
 リースリングはひととおり応急処置を終えてから、ハーンに尋ねた。
「……『蒼い蛇』の正体、教えて」
「『蒼い蛇』――」
 彼女の言葉に、ハーンは一瞬遅れてつぶやいた。その意味を思い出そうとしているかのように、彼はじっとなにもない土の地面をみつめている。少し考え込んでいるかのような、物思いに沈んでいるような、沈黙の時間が二人におりた。
 そしておもむろに、ハーンは口を開いた。
「――『蒼い蛇』か。そうだったな。そろそろ教えてやってもいいか」
 彼は小さく微笑し、リースリングのほうを向いた。冷え切った、皮肉めいた笑みだった。
「その前に、その『蒼い蛇』に会って、どうするつもりだ。まさか裏の世界の者どうし、旧交を温めにきた、ってんじゃねえだろうな」
「……『蒼い蛇』は、今回の私のターゲット。命をもらうために捜している」
 平然と云う彼女に、ハーンはわずかにうなずきながら云った。
「だろうな。それがお前の『仕事』だろうしな」
 そして、彼は口にした。
 『蒼い蛇』の正体を。
 リースリングはそれを確かに聞いた。
 彼女は少しだけ瞳の色を変えたようにみえたが、表情を崩すことはなく、やはりとりつきようのない顔つきのままだった。ハーンは彼女の顔がどう変わるか見定めようとしたが、特段変化がなかったためややがっかりするとともに、これがこいつらしいのだとどこか納得したような気分にもなった。
「……それが、他の小さな村より真っ先にヴェルタ村に攻め込んだ理由……?」
 彼女が尋ねると、ハーンはすぐそばの地面をみつめながら、はるか遠くをながめるような目で云った。
「それだけじゃないけどな。それが大きな理由にはなってたさ」
 力なく息をはくハーン。威勢のない声で、彼はリースリングの方を見ずに云った。
「オレはもともと孤児でな。親が育てきれねえからってんで生まれたばかりのころに捨てられたんだ。それをある村のばあさんが拾って、孤児院にあずけた。たしかにその孤児院は周辺でも特に有名なところで、評判もよかったもんだから、ばあさんは完全に親切心でやってくれたんだろう。そこの院長が裏の顔をもっているなんてまったく思わずにな。知らずにやっちまうことほど始末に負えねえものはねえ。
 そこはさまざまな理由で孤児になったやつらがたくさんいた。オレみたいに親に捨てられたやつもいれば、親の顔も知らねえやつ、暴力を振るわれて家を出たやつ、親に追われて命からがら逃げ込んできたやつもいた。親が二人とも死んだから来た、ってのはあの孤児院では幸せな方だった。どいつもこいつもどうしようもなく心暗いものを抱えこんだやつばかりでよ、だから悪ガキばかりで、ケンカも絶えなかった。それをあの院長は怒ることなく笑顔で――いつも満面の笑みだったぜ――オレたちをなだめ、うまくまとまるように常に気をつかっていたんだ。オレも最初は尊敬したさ。いくらこっちが突っかかろうがきたねえ言葉を吐こうが、声を荒げることなくただうなずいて優しい言葉を返してくるんだからな。中には、将来は院長みたいな人になりたい、なんていうやつもいてよ。間違いなくヤツはオレたち孤児の尊敬の的だった。
 だがそいつ――『蒼い蛇』が本性を現したときには、もう取り返しがつかねえことになっていたんだ」
 苦々しい顔をして、ハーンは話を続ける。リースリングはなにも云わず、ただ黙って彼の方を向いていた。
「オレはある中流貴族の養子にもらわれた。その孤児院はほとんどの子供がどこかの養子としてもらわれていて、オレもいつかそうなるんだと思っていた。それがやってきたのが、十二のとき。院長から『君の引き取り手が決まったんだ。おめでとう』っていわれてな。
 だがその養子ってのが名ばかりのものだった。行った先で、オレは養子どころか奴隷同然の生活をさせられたんだ。
 初日から、親になったクソ貴族に一日中家の雑用を命じられ、理由もなく殴られ、スズメの涙ほどの食べ物を与えられて毎日過ごす羽目になった。『今日中にヤマオオカミを三頭狩ってこい』なんて無茶なこと言って、できないオレをいたぶってくることもあった。家に来た他の貴族には『便利な掃除道具が手に入った』なんていってやがったな。はじめからそのつもりだったんだ。やつらにとって、オレは気が向いたときにもてあそぶ玩具みたいなもんだ。いつ死んだってかまわない。死ねば、またひとつ買えばいい。それだけのものだったんだ。
 はじめはオレだけかと思った。だがそうじゃなかった。ある日、殴られた痛みで眠れねえから気分転換に廊下に出たとき、居間からやつらの会話が聞こえたんだ。盗み聞くと、そのときにやつらは言っていた。あの孤児院から出た子供はみんな貴族の奴隷として扱われているのだと。あの孤児院は、奴隷保管所なのだ、と。そしてもっと驚いたのが、院長が通称『蒼い蛇』と呼ばれる奴隷売買人だったってことだ――。
 結局、オレは物心つくころから『蒼い蛇』にだまされ続けていたんだ。あの笑顔の裏に、とてつもなく醜いただれた顔を隠していたあの院長にな。それを知って、オレは貴族の家を飛び出した。どうせやつらにとってオレなんていてもいなくても変わらねえんだ。それなら、こんな希望の欠片もないところで人生を過ごすのはばかげてる。そう思って、やつらの目を盗んで抜け出した。それから、オレは町で自分と似たような境遇の仲間を集めて、グレアムの森にひそんだ。最初は数人だった。旅人を襲って金を奪い、それで食っていった。そのうちに仲間が増えていって、行商人を襲うようになり、それからまた人数が増えて――『グレアムの兄弟』なんて名のるほどになっちまったけどな。
 オレもいろんなあくどいことに手を染めてきたが、あいつよりマシだと思うぜ。人をだまし続けて、なにも明かさないまま子供を地獄へ突き落とすあの男にくらべりゃな。孤児も、周りの人間も、自分にかかわる人間をことごとくだまして裏切り続けるなんて……ぐっ」
 と、ハーンは突然せきこみはじめた。それがおさまるのをみてから、リースリングは云った。
「……もうあまりしゃべらないほうがいい」
「うるせえ。オレに命令するな」
 彼は強がり、まだまだ動けるといわんばかりにどかっと背中の石へ身をあずける。
「『グレアムの兄弟』をでかくして、あの『蒼い蛇』を血祭りにあげるつもりだったんだ。くそ、またいちからやり直しじゃねえか。――今度はもっと仲間の人数を増やして、鉄剣団のやつらを一人残らず葬ってやる。女どもはみんな手ごめにして、村の財産はすべてかっさらって火を放って、やつらを破滅に追い込んでやる――」
 仲間を失い、重傷を負ったこの絶望的な状況になってなお、彼は未来への描写をやめなかった。それが彼の性格であり、信条であった。
「オレは死なねえことに決めてるんだ。こんなところからでもはいあがってやる。そしていつかこの国の国王になってやる。また五年もすれば、チャンスがめぐってくるさ。オレにはそんな気がする……」
 そういってから、彼は青白くなった顔をリースリングのほうにめぐらせた。彼女はなにも云わず、ただハーンのほうをみている。
 彼は、小さな声で云った。
「リースリング――手ぇ、にぎってくれ」
 とつぜんの言葉に、リースリングは少しの間、ハーンへ視線を向けたまま動きを止めた。ハーンはその端正な顔立ちに開いているアメジストの瞳をのぞきこむ。
 謎めいた、妖しい色。彼の興味を引いてやまないリースリングの心。
 どんなときも無表情で、人を助けるときも、人を殺すときも、まるでそれが何も特別なことではないように平然とした態度のまま。
 この女はいったい、いつ、どんなことを考えているんだ。
 この三日間、それを考え続けたが、結局つかめない。いまもそうだ。この女はなにを――。
 そうやって思いをめぐらせる彼の目の前で、リースリングが右手をおもむろにもちあげた。
 そしてそれを、地面に置かれたハーンの左手にそっとかぶせる。
 その瞬間、ハーンの表情がふっと和らいだ。
 まるで恐れていた想念からやっと開放されたかのような顔つき。ハーンは自分の左手に重なった彼女の右手に目を注いだ。
「……あったけえ。ひさしぶりだぜ……あったけえのが身にしみる……」
 それまでの彼とは全く違った、落ち着いた声だった。
「……お前みたいな冷たい女でも、ちゃんと血は通ってるんだな」
 彼はしみじみと云った。なにもかも失った彼にとって、それはいま自分にある唯一の温かみだった。
 しばらくの時間、彼はなにもしゃべらなかった。
 リースリングも、しゃべらない。
 ただ静かな時間が、二人の間に過ぎる。
 鳥の声が聞こえる。人々の喧騒に驚いて逃げた鳥が、少しずつ戻ってきている。風が木の葉をゆらす音も流れ出す。戦いのあったことが幻だったかのような、さわやかで、おだやかな朝だった。
 やがてハーンは、リースリングの右手をはねあげた。
「行けよ」
 彼は目をとがらせ、リースリングに云った。
「オレとの契約は終わりだ。さっさと『蒼い蛇』をやりにいけ」
 ハーンの言葉に、リースリングは色のない顔のまま云った。
「……あなたはこれからどうするの」
「オレのことはどうでもいいだろ。お前に心配される筋合いはねえんだよ。さっさといっちまえ」
「でもこのままじゃ、あなたは……」
「いけ、っつってんだろ!いい加減、目ざわりなんだよ。どうせお前はオレの情報目当てだったんだろ。もう『蒼い蛇』の正体は教えてやったんだから、用済みじゃねえか。さっさと消えろ!」
 ハーンは急に態度を変え、投げつけるように言葉をはいた。リースリングはそれを受けると、ゆっくりと立ち上がる。
 ハーンを深いアメジストの瞳でみつめ、リースリングはそれ以上何も云わずに彼に背を向けた。
「リースリング」
 彼女の背後に、ハーンは再び思い直したように声をかけた。
「……感謝してるぜ。お前がいなきゃ、オレはここまでやれなかったろうしな。ありがとう」
 彼の言葉を、リースリングは立ち止まって聞いた。そしてまた、歩き始めた。
 背後から彼女の表情はうかがえない。きっとまたなにも変化のない顔つきでいたのだろうと、ハーンは思った。
 太陽がのぼる。ゆるやかな時間の流れのなか、彼はたったひとりになった。
 これから先、彼はそのまま屍となって朽ちていくのか、それとも奇跡的に傷を治しまた森の中で仲間を集めるのか――。
 彼は神を信じていなかった。だから彼の未来を知ることができるのは、だれ一人としてこの世にいないはずだった。




 
前へ TOPへ 次へ