死神と女神の狭間 第ニ章  

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 ヴェルタ村に、夜の帳が下りた。
 朝から戦いに出た鉄剣団の男たちは、村の警備役以外のものは思い思いに休んでいた。緊張がはりつめたままだったこの三日間、日常の生活がある彼らにとっては神経をすりへらせながら送ったタフな時間だった。皆は盗賊団に打ち勝った喜びと、そのために払った犠牲者への悼みとを胸に秘めながら、久しぶりに思えた安らかな時間を過ごしていた。
 明日は村長の発案により、犠牲者を弔う儀式と勝利を祝うささやかな式典が予定されていた。村に残っていた女子供、様々な理由で鉄剣団の戦いに参加できなかった者たちが、日が暮れるまでその準備にいそしんでいる。村人たちは全員、今回の『グレアムの兄弟』との戦いを心配し、全てを鉄剣団にゆだねていた。気にかけない時間などいっときもなかった。だからこそ、団員らに対する感謝と称賛を全力で示そうと、彼らは労力を惜しまなかった。
 アラウンの妻・サンドラも、かなり遅い時間まで式典の料理の下準備を手伝っていた。ダグラスには「アラウンのそばにいてやったほうがいいんじゃないか」と云われたが、彼女は夫が命がけで戦いに向かったことを思い、せめてものことをしてあげたいと明日の準備に最後まで取り組んでいたのだった。
 それもようやく完了するというところまできて、これまた遅くまで残っていた村長に、サンドラは呼ばれた。
「サンドラさん、遅くまでご苦労さま。アラウンとタウラスはいいのかね」
 尋ねる村長に、さすがに寝不足だったサンドラはやや疲れた表情で、だが彼女にしては明るい声で云った。
「はい。私はいままで村の中でじっとするしかなかったから……ここで働かないと」
「あまり無理せんようにな。ところでサンドラさん、ちょっといいかな」
「はい」
「もうしわけないのじゃが、タウラスをわしの家まで連れてきてほしいのじゃ」
「タウラスを?」
「あの戦いのとき、木から落ちたと聞いてな。いちおう、医者に悪いところがないか見てもろうた方がいいかと思うて、隣町にいる知り合いの医者に来てもらっておるんじゃ」
「本当ですか――?あ、ありがとうございます。さっき晩ご飯をつくってあげたから、まだ起きてると思います――すぐにつれてきます」
 そう言ってサンドラは村長に感謝すると、ひとまず自分の家に戻り、タウラスを呼んだ。
「僕、どこも痛くないよ」
「でも落ちたときに骨を打っていたら、あとから痛くなってくるかもしれないわ。お医者様がみてくださるんだから、おとなしくしているのよ」
「苦いお薬出されたらいやだな……」
「文句言わないの」
 そう云って彼女はタウラスの手をひっぱるように引き、村長の家に向かった。村長に云われたとおり、二階にのぼる。
 村長の家は一階が村の集会所になっており、鉄剣団の事務所も兼ねていた。鉄剣団の団員が会議をしたり、村の役員たちが行事の話し合いをする場所として頻繁に使われている。サンドラも一階には行事の手伝いで何度か足を運んだことがあった。
 二階は村長の居住スペースになっていた。あまり村の人が立ち入る姿をサンドラはみたことがなかったし、もちろんサンドラ自身も二階にはのぼったことがなかった。なんの変哲もない普通の部屋が並んでいるだけだと彼女は思っていたので、とくだん興味もなかった。実際、いまサンドラがあがった二階は、なんの変わりばえもしない、いたって普通の間取りだった。
 彼女は廊下の一番奥にあるドアをノックし、部屋に入った。中では大きな木の机をはさんで村長が座っている。机の上には物は無く、部屋の中もきちんと整理されており、村長の几帳面さが表れているようだった。
 村長をみつけると、サンドラはおまたせしましたと頭を下げた。村長はゆっくりと立ち上がり、彼女に申し訳なさそうな顔を見せた。
「すまんのう、疲れておるのに。タウラス、元気かな」
「うん……」
 とはいうものの、タウラスは若干眠たそうにまぶたを重くしていた。
「村長、すみません。なにからなにまで気を遣っていただいて」
「いや、わしにはこれくらいのことしかできんからのう。ダグラスやアラウンのように戦いに出れるわけでなし、この老いぼれにできることといえばこんなことしかないのじゃ」
「とんでもないことです。村長はアラウンがタウラスを助けに出ていったときも、私が落ち込んでいたときも、つねに気にかけてくださいました。それだけでどれだけ救われたことか……」
 サンドラがそう告げると、村長は何も云わずにただ表情を和ませた。
 タウラスを前にやり、サンドラは尋ねた。
「あの……お医者様はどちらに……?」
「ああ、すまぬのう。いまちょっと外に出ておるのじゃ。すぐに帰ってくると思うから、もう少し待っていてくださらんか」
 ええ、もちろんとサンドラはうなずき、村長にすすめられて横の椅子に座った。タウラスも眠気まなこでその隣に座ろうとする。
 そこへ、村長は口を開いた。
「ああ、サンドラさん。タウラスをちょっとお借りしてもいいかな。わしにも少し具合をみられるから、さきにみられるところは診ておこう」
「あ、はい――タウラス、村長のところにいきなさい」
 彼女は何も考えず、タウラスを村長のそばまで向かわせた。タウラスがとぼとぼと歩いていく。
 村長はタウラスがやってくると、少年の背にあわせてしゃがみこみ、その両肩に手をおいた。
 サンドラはそれを椅子に座って眺めている。村長は以前、医者をやっていたのだろうか、などと思いながら。
 そして村長がタウラスの肩から手を離し、胸の前でなにかを丸め込むように両手を形づくる。
 すると、そこから小さくはじけるような音がした。
 と思うと、サンドラの目の前で、タウラスはひざから崩れ落ちるようにしてその場に倒れた。
「――タウラス……?」
 サンドラが椅子から立ち上がる。そこへ、村長はいつもの優しい顔を向けた。
「サンドラさん、心配せんでいい。ちょっと気絶させただけじゃ」
「気絶……?」
 サンドラは戸惑いながら、タウラスの方を心配そうに見つめる。息子はたしかに目を閉じて力なく倒れている。だが村長の態度は落ち着き払ったまま。
 どういうことか理解しかねていたサンドラに、村長はきわめておだやかな目を向けた。
「サンドラさん、ひとつわしからのお願いがあるんじゃが」
「え?は、はい。なんでしょう……」
 サンドラが答えると、村長はにこやかな顔のまま云った。
「サンドラさん。このタウラスを、わしに預ける気はないかね」
「預ける……?」
「そうじゃ。実は、サガンの上流貴族のひとつに養子の口があってな。わしに預けてくれれば、この子をその裕福な貴族夫婦のところに渡すことができるのじゃ。もちろん、それ相応の金額でな。どうじゃ」
 サンドラには、村長の話していることの意味がよく分からなかった。
 タウラスを、貴族に引き渡す?お金と引き換えに?
 村長がそんなことを話すこと自体、彼女には信じられなかった。彼女は村長におそるおそる尋ねた。
「あの……それはどういう……」
「わからんか?要するにこの子を売れば、サンドラさんのもとには大金が入ってくるということじゃ。悪い話じゃなかろう」
「そんなこと……タウラスを売るなんて……村長、どうしてそんなことをおっしゃるんですか」
 いくぶん驚愕して、サンドラは云った。そして、タウラスが気を失って村長の足元にいることがとても危険なことのように感じられた。
「村長……どうなさったんですか。いつもの村長じゃない……」
「わしはいつもどおりじゃよ、サンドラさん。いつもどおり孤児たちの面倒をみて、ちょうどいい年齢になったところでサガンの貴族に売っておる。孤児じゃから売ったところでだれも悲しむ者はおらんし、人身売買というのはいい商売じゃよ」
 村長はにこやかに笑った。いつもの通りの、やさしい笑顔。その表情には罪悪感のかけらも見えない。
「ある貴族から、宮廷の占い師にいわれてどうしてもすぐに九歳の男の子がほしいということでの。じゃがわしのところの孤児には九歳の者がいなかったので、困っておったのじゃ。タウラスはちょうど九歳じゃし、なんとかもらえないものかと前々から気にしていたのじゃが、なかなか機会が無くての。そうしたらアラウンがタウラスを助けに行ったまま戻って来なかったので、これはよいと思って引き取り先に話をつけてしまったのじゃよ。本当はアラウンが死んでくれればもっと話がしやすかったんじゃが……。そういうわけでサンドラさん、どうかタウラスをわしに売ってくださらんじゃろうか」
 まったく平然とした調子で残忍極まりないことを云う目の前の老人に、サンドラはショックのあまり顔を青ざめさせ、言葉を失った。
 村長の云う言葉が全く実感できない。あまりにこれまでの村長のイメージとかけ離れている。
 これがこの老人の本性なのだろうか。
 本当に?なにかの冗談ではないのか――?
 子供を売る……人身売買……これまで想像もしたことがないような言葉が村長の口から次々に出てくる。
 自分の息子を売るなんて――
「そんな……そんなこと、できるわけありません……」
 なんとか声をしぼりだし、サンドラはまっとうな答えを出す。村長はそれを残念そうに聞いた。
「そうか……なら、しかたあるまい」
 そう云って、村長はまた胸の前に両手をもってきた。二つの手のひらの間で、なにか光るものがはじけるのがサンドラにみえた。さきほどタウラスが倒れる直前に聞こえた音と同じ音が、彼女の耳に届く。
「あまりこういうことはしたくなかったのじゃが……」
 そう言って、村長がサンドラの方を向いた。
 その目を見たとき――
 サンドラは、自らの命の危険を感じた。
 とっさに彼女はドアの方へ身をよけようとする。だがそれを予想していたように、村長は彼女の逃げる方向へ体を向けた。
 村長の両手の中から小さな雷のような細い光の線がのびる。
 一瞬にして、その光はサンドラをとらえた。
「ああっ!?」
 サンドラは一気に全身の力が抜けるのを感じ、床に倒れ伏した。
 何が起きたのかわからず、彼女は体を動かそうともがく。だが脳からの信号が遮断されてしまったかのように、手も足もいうことをきかない。
 かろうじて動く首をめぐらせているサンドラを見て、村長は告げた。
「無駄じゃよ、サンドラさん。ちと強い魔法をかけさせてもらったからの。少しのあいだ動けんよ」
 相変わらずおだやかな口調の村長を、サンドラは床から見上げた。
「……わ……わたし……を……どうする気……」
「タウラスを渡せないと言われた以上、無理やり奪うしかないのう。もちろんサンドラさんには死んでもらわねばならん。このことが外にもれれば大変じゃからの」
 村長はいったん机にむかうと、引き出しに手を差し入れた。取り出したのは、先の鋭くとがった大型のピック。
 それが目に入ると、サンドラは悲鳴を上げた。部屋中に彼女の恐怖にふるえた声が響く。
「無駄じゃよ、サンドラさん。この部屋は特殊な部屋でな。音が外にもれないようになっておるんじゃ。便利じゃよ。誰かを殺すときには、いつもこの二階の部屋を使っておる」
 ピックを右手に握った村長が、一歩ずつ近づく。サンドラは恐ろしさのあまり気が狂いそうになりながら、ほとんど動かない首を必死にふって抵抗を示した。だが立ち上がることも、はって進むこともできない。
「わたし……を……殺したら……アラウンが……だまってない……」
「アラウンにはこう言っておくよ。奥さんは、盗賊団のところにいた黒髪の女に殺されたと。あの女がタウラスを取り返しにやってきて、サンドラを殺してしまった。わしはなにも抵抗できなんだ、とな。だれも怪しむ者はおるまい。まったく、都合のいい人間がいてくれたものじゃな」
 村長は笑顔のまま、サンドラのそばまでやってくる。手にしたピックが彼女の目ににぶく光ってみえる。
 サンドラは、いまだ倒れたまま動かないタウラスの方を見た。そして、恐怖と悔しさに目をうるませた。
 やっと平和が戻ってきたと思ったのに。
 レオはいなくなってしまった。そのぶん、アラウンと、タウラスと、三人で幸せに生きていこうって確かめあった。
 それなのに、どうしてこんなことになるのだろう。
「タウラス――」
 せめてタウラスだけでも、ここから逃げ出して――。
 だが、彼女の祈りはむなしい。
 もはや冷酷な孤児売買人となり下がった老人が、ピックの先をサンドラの頭部に定める。彼女は体を震わせ、老人に命乞いの目を向ける。
「やめて……やめて……」
「サンドラさん、ここでお別れじゃ。安心しなさい、タウラスは貴族のもとへやるだけじゃ。殺しはせんよ。もっとも、タウラスはむこうで奴隷同然の生活を送ることになるんじゃろうが、死ぬよりマシじゃろう?」
「…………!」
 サンドラは精一杯嫌悪の目をしわにまみれた男の方へ突き刺す。だがそれをかゆいとも思っていないのか、村長は表情を変えないままピックを持つ右手を振り上げた。
 そして、それをサンドラの頭へ刺し下ろす――
 そのときだった。
 木のきしむ音とともに、入り口のドアが開いたのは。
「――――?」
 老人の手が止まる。首をドアの方へめぐらせる。
 その笑顔の仮面をかぶった表情が、はじめて疑念にゆがむ。誰も来るはずのない二階の部屋。そこに現れた、来るはずのない人間。
「――あんたは――」
 老人がしわがれた声を出した。それが、サンドラの耳に入る。
 彼女は死を覚悟して、目をつむっていた。その目が、徐々に開かれる。
 村長はまだ目の前に立っている。顔をドアの方へ向けている。
 誰かやってきたのか。
 サンドラも同じ方向に顔を向けた。そして、あっと驚いた。
 そこには忘れもしない、この世界で彼女が最も憎むべき人間が立っていた。
 すらりとした細長い体。それにぴったりあった、闇をまとったかのような黒い服。背後に流れる長い漆黒の髪。仮面をかぶったような色の無い表情。そこに開く、アメジスト色の物憂げな瞳。
 サンドラと老人の目にうつっていた、ドアに現れた人物。
 それは、黒い髪の死神――リースリングだった。
「あっ――!」
 サンドラが声をあげる。その瞬間、彼女の中で数多くの感情が複雑に入り混じった。
 限りない怨恨、絶望からの救い、新たな恐怖――
 サンドラは言葉をつくれないまま、レオを殺し、タウラスをさらった張本人の姿をただ見ているしかなかった。
 そうしているうち、村長が口を開いた。さきほどまでの笑顔は完全に消え去っていた。
「どうして……あんたがここに……」
 リースリングはきしむドアをゆっくりと閉め、村長に云った。
「……『蒼い蛇』に会いにきた」
 彼女がそう告げると、老人の顔がさらにゆがむ。サンドラも、村長のその表情の変化を見た。
「『蒼い蛇』じゃと……?」
「……身寄りを失った子供を各地から引き取り、サガンの富裕層へ奴隷として売り渡していた人身売買人。通称『蒼い蛇』。聞いた情報を頼りにたどり着いたのが、ここ」
 リースリングは深い紫色を目を、まっすぐに村長の方へ向ける。
「……あなたが『蒼い蛇』イヤマ・ノールね」
 そう言うと、名前を呼ばれた村長が動揺を笑顔で隠す。
「わしが?人違いじゃないのかね。わしはそんなだいそれた人間ではない――」
「この人よ!」
 そのとき。
 サンドラが叫んだ。
 村長の、リースリングの目線がサンドラに移る。彼女は何も考えずに、リースリングへ告げた。
「この人が――タウラスを――私の子供を貴族に売るって――」
「黙れ!!」
 老人が声を荒げる。さきほどの余裕のある態度からは想像もできないほど、彼の様子はせっぱつまっていた。
 リースリングが再び老人の方を見る。冷たく、鋭い目。
「……あなたが『蒼い蛇』ね」
「だ、だったらなんなのじゃ……」
 ようやく認めた老人に、リースリングは冷え切った口調で云った。
「……あなたに恨みは無いけれど、死んでもらう」
 そう云って、彼女はゆっくりと老人の方へ歩きだす。『蒼い蛇』はそれを手でとめた。
「ま、まってくれ……どうしてわしが『蒼い蛇』だとわかったんじゃ……どうして……」
 彼の言葉に、リースリングはすこし間をあけて、答えた。
「……ハーンは、あなたに売られたそうね」
「ハーン、じゃと……?」
「あなたのところで育てられたあと、貴族に奴隷として売られた、と言っていた。十八年前に。それから貴族の屋敷を逃げ出し、『グレアムの兄弟』の首領になってあなたに復讐する機会をうかがっていた。あなたは覚えていなかったみたいだけど」
「ハーン……そういうことか……」
 自分の正体を知る者が『グレアムの兄弟』の首領になっていたことに、『蒼い蛇』は唇をかんだ。それへ、リースリングは冷たく云った。
「……ひとつの犯罪にあまり長く浸かっていると、いつかは足が出るものね」
「…………」
 老人は表情をゆがませたまま、リースリングに云った。
「じゃが、どうしてわしなのじゃ……なぜわしが殺されねばならん?あのブタのような貴族たちの恨みをかったことは一度としてなかったはずじゃ。それなのに……なぜわしが……」
「……知りたければ、あの世にいってから自分で調べて」
 そう云い、リースリングは腰のポケットに右手をやる。老人は彼女の方をにらむようにみつめながら、そっと両手をあわせた。
「わしは……まだまだ裕福な生活を送りたいんじゃ……もっと大量の子供を送り込んで、金をもらって……こんなところで殺されるわけにはいかんのじゃよ……!」
 パチッとはじける音。サンドラが思わず身をすくめる。
 『蒼い蛇』は三度、雷の光を両手から発した!
「あっ!!」
 サンドラが叫ぶ。リースリングが不意をつかれたようにみえた。
 だが――
 サンドラの目に映ったのは、魔法の光線をリースリングが間一髪かわす姿だった。
 いや、彼女の目には間一髪に見えた、としたほうが正しい。それがリースリングにとって危うかったのか、それとも余裕があったのかはサンドラにはわからなかった。
 ただ――
 リースリングが光線をかわした直後、『蒼い蛇』が苦しみの声をあげたのは確かだった。
「うっ……?」
 サンドラが振り返る。村長が、小さな目をいっぱいに見開いている。光線を放っていたはずの両手は、胸の辺りをぐっとわしづかみにしている。
 そのまま、村長はニ、三歩前へ足を出してから、前のめりに倒れ伏した。口からは泡をふいている。
 あっけない決着だった。
 自分を殺そうとした老人が、目を開けたまま、無残な姿で絶命している。
 いったい何が起きたのか。サンドラにはわからなかった。黒髪の女をみると、右腕を前に突き出している。まるで、なにかを投げ終えた後のように――。
 毒針でも投げたのか、あるいは――。
 サンドラは足に力を込めた。魔法の効果が切れてきたのか、なんとか立ち上がれる。
 もう全く動かなくなった『蒼い蛇』を横目に、サンドラは足をふらつかせながらもタウラスのもとへ駆けていった。
「――タウラス!大丈夫、タウラス!?」
 しゃがみこみ、肩をゆする。静かに息をしていたタウラスが、ゆっくり目を開いた。
「……母ちゃん……」
「タウラス――よかった……!」」
 サンドラは胸をなでおろし、タウラスを強く抱きしめる。彼女は伝わってくる自分の息子の体温を確かに感じた。
 あれだけ信頼していた村長の思いがけない行動。信じていたものを失った衝撃。サンドラは心が折れそうになるのを、タウラスを胸に抱くことでようやくこらえることができた。
 しばらくのあいだそうしていた彼女の耳に、ドアのきしむ音が聞こえた。はっとして、彼女は入り口を振り向く。
 あの黒髪の女が、部屋から出て行こうとする。
「待って」
 サンドラはおもわず呼び止めた。開いたドアのところで立ち止まり、振り返る女。
 彼女の顔をじっくり見たのは、これがはじめてだった。村にハーンと一緒にやってきたときは興奮していて、あまりこの女の表情が見えなかった。サンドラは、レオや鉄剣団の多くの者の命を奪い、タウラスをさらい、アラウンやダグラスを傷つけた女の姿をみつめた。
 引き結んだ口。何の感情も表れていない顔つき。その中に妖しく光る、紫色の瞳。
 深く、かすんだような色。じっと目の前を凝視しているようで、でもどこか遠いところをみているかのような、不思議な目。
「――勘違いしないで」
 サンドラはその目に向かって冷たく云った。
「村長に殺されるところだったのを助けてくれたことには、感謝してる。ありがとう。けど――やっぱりあなたは私にとってレオの命を奪った人殺しよ。それが偶然だったとしても――私は、あなたを絶対ゆるさない。タウラスが助かるよう、わざとあなたがアラウンを見逃してくれたなんて、私は思ってない。だからこれであなたの罪が帳消しになったなんて、思わないで」
 きっとした目でサンドラはリースリングを見る。敵意を込めた、恨みをこめた目で。
 だがリースリングはそれに抗うこともなく、ただ暗く沈んだ視線をサンドラに向ける。
 ただ一言だけ、彼女は云った。
「……あなたこそ」
 再び出口に向き直り、リースリングが扉の向こうへ消える。
 彼女が発したその短い言葉の意味を時間をかけて飲み込みながら、サンドラはその後姿をながめた。
 腕の中で、目を覚ましたタウラスの鼓動を感じる。二人は殺風景な村長の部屋で、なにかを待っているかのように、ただぽつんとその場にたたずんでいた。
 窓の外には黒く静かな世界が広がっている。空には明るくきらめく星々。先の見えない闇の中できらめくその光は、いつまでも変わることのない信頼のおける道しるべにも見える。
 『蒼い蛇』だった村長は、結局星ではなかった。星だったはずのレオも、その光を守ることができなかった。ではアラウンは?タウラスは?ダグラスは?
 あの女は――?
 サンドラは頭を振る。彼女はもうそれ以上考えるのをやめた。何か底の無い沼地に足をつっこんでしまいそうな、いやな予感がしたからだった。
 明日の準備も終わり、外は静寂に包まれている。願わくばこれを最後に、平穏な日々がずっと続きますようにと、サンドラは神に祈らずにはいられなかった。




 
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