死神と女神の狭間 第三章  

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 殺そうとしているのは、他人。

 両親でも恩人でもない、他人。

 でも、友達。

 学院時代をともにすごした、同級生。

 それを私は――

 知り合いであることを利用して、自分の生活のために殺そうとしている。

 卒業するとき、ペンダントを分かち合って十年後の再会を約束した人を――

 私のことを理解してくれて、私のことを心配してくれている人を――

 そう思える人を――




















「だめっ!!」
 リュールは叫びながらソファから立ち上がると、ウェインが口をつけたカップを手で払い落とした。
 カップはソファのひじかけにぶつかって紅茶をまきちらしながら、踊るように敷かれたじゅうたんの上に落ちる。
 飛び散ったオレンジ色の液体がしみになっていく中を、カップが軽く一回バウンドする。ころころとやわらかい床の上を転がっていき、取っ手が下になったところで、カップは止まった。
 しんとした静寂が、二人のあいだを流れる。
 ウェインはとつぜんのことに、おどろいた表情のまま動きをとめた。
「リュール……さん……?」
 彼が見上げるリュールの顔が、蒼白になっている。それはそのまま、彼女の心の状態を反映していた。
 とっさにウェインのカップを払ったリュールは、転がっていったカップの方を見ながら、頭の中が真っ白になっている。
 ウェインが困惑した瞳で自分をみつめているのを、彼女は感じ取った。でも、そちらへ顔を向けられない。彼女は思わず濁った目をうつむかせた。
 そして胸から喉元に少しずつこみあげてくる、焼き付くようなトゲのある感情。
 迷妄。羞恥。後悔。
 自分への嫌悪――
 弱まったリュールの胸の中に、わき水のようにしみ出てくる負の情動。
 恩のある自分の主人の頼みを裏切ったことと、ウェインが自分の方をいぶかしげに見ていること。それらが、リュールの心を乱暴につかみ上げ、押しつぶそうとしている。
 くちびるを震わせて、なにかを云おうとするリュール。だがなにも言葉が出てこない。まるで頭の中にあるはずの言葉をつむぎだす機能がマヒしてしまったかのような、力のない状態。
 ――何を云えばいい?
 ウェインに、なんて云えば――
 私のいまの心情を理解してくれる――?
 心が揺れたままのリュールに、ウェインは戸惑った表情をしながら云った。
「どうしたの、急に……」
 彼の言葉が、リュールに答えを要求する。
 答え――
 ウェイン君。
 私はいま、あなたを殺そうとしていました。
 私がいま手で払ったカップの中に、毒をしこんでいました。
 昨日のお礼と称してあなたを油断させ、命を奪おうとしました。
 あなたにもらったもの、あなたから受け取ったものを、全て記憶の中から消し去ろうとしました。
 小さな胸の中で、泥のような感触が渦巻く。心臓の鼓動や血液のめぐりが止まったかのような、体の中から全ての動きが静止する息苦しい感覚に、彼女は襲われた。
 眼鏡にかすみがかかったように、視界が灰のような色になる。
 なにもみえない、なにもきこえない。
 ちがう。
 なにもみたくない。なにもききたくない。
 リュールは青ざめた顔で、ウェインの方を見ずに、息だけのような小さな声でつぶやいた。
 唇をふるわせながら――

「…………ごめん…………」

 いたたまれなくなったリュールは、その場から駆け出していた。
「リュールさん!?」
 背後からウェインの声が聞こえるのを無視し、彼女は部屋の入り口の方へ向かう。思い切り強くドアを引き、部屋から出た。
 城の廊下に敷かれた一直線の赤いじゅうたん。彼女はその上を、前も見ずに走りだした。
「リュールさん! 待って、リュールさん!!」
 自分の名を呼ぶウェインの声。リュールはそれにかまわず、がむしゃらに駆けた。
 城内の広い廊下が後ろへ流れる。通路を右へ。そして左へ。歩いていた兵士の横を過ぎても、使用人と出会い頭にぶつかりそうになっても、リュールはただ下だけを向いて走った。
 走っているうちに、自分がどこを走っているのかわからなくなった。
 どうして自分が走っているのかも、わからなくなった。
 リュールは、胸にしみるように残った痛みを振り払うように、無意味なくらい力を入れて走った。
 ただ、逃げたかった。
 自分がだまそうとした人の前から。
 嫌悪する自分自身から。
 今を取り巻く不幸な境遇から。
 全てから――。
 彼女の視界に、灰色のヴェールがかかる。閉塞感が、彼女の胸にのしかかる。
 逃げたい。逃げたい。
 ――どこへ逃げるのか。
 闇から逃げようとして、また別の闇に入ろうとしていることに、彼女は気づいていない。
 走っても走っても、周りにある闇はリュールの体にからみつく。
 そのことに、心が曇ったままの彼女は気づくことができない。
 どうあがいても抜け出せない迷宮に、リュールは迷い込み、途方にくれている。


 気がつくと、彼女は人気の少ない裏庭に出ていた。
 日差しが視界に入ったのに気づき、彼女は足を止めた。夕暮れ時の空は薄ら赤く染まっている。彼女は少しだけ辺りを見回すと、たまたま目に入った近くの石造りの壁に向かった。力なく背をもたれさせ、茂みに隠れるようにその場にしゃがみこむ。
 ひざを両腕で抱えながら草の生えるだけの地面を目に映していると、圧迫されていた胸の中にじわりと感傷的な痛みが走った。彼女の弱い心は良心と罪悪感に打ちのめされ、容易に立ち直れない。
 胸の圧迫感に呼吸がつまると、代わりに目から涙があふれた。ほおにひと筋、ふた筋と光が伝う。どうしようもなく沈み込んだ暗い気持ちに、彼女は両腕で顔を隠し、あふれでる感情のまま嗚咽をもらした。
 彼女は思った。
 あのころとはちがう。
 私は――
 私はもう――
 ウェイン君とは、別の世界にいるのかもしれない――
 自分の生活を守るために、私は人をひとりころした。
 そしてもうひとり、ころそうとした。
 罪悪感を消して。思い出を忘れて。
 自分は「人殺し」なのだということを正当化しようとして――
 ウェイン君。
 私には、戻る資格がない。
 学院には、戻れない――
 リュールははい上がれないほど深い谷の底に落ちたような気分のまま、上を見上げることもできずにただただすすり泣いた。それは、自分がいつのまにか光の見えない場所にいることを彼女が初めて認識したときでもあった。










 日が沈み、長い夜が明けた。
 決戦の日。
 サガン軍にとっても、ネイル軍にとっても、お互いに攻勢をかけることになる日。
 ガダルカの谷の風は、止んでいた。
 両軍が対峙してから連日吹き続けていた風が、この日の朝にぴたりと止まった。ひと月に一度はあることで、けっして珍しいことではない。しかし谷の神や精といった神聖なものが、この日にあわせてわざと風を止めたのかもしれないと妙な偶然さを感じる者は、ネイル軍にもサガン軍にも少なくなかった。
 その谷を大きくう回して早朝から軍を展開しているのは、ガダルカの剣兵隊。
 ほぼ直角に近い崖の上から見下ろすと、谷の底にあるガダルカの城と『鉄の壁』が一望できる。幸いここからの攻撃をネイル軍は想定していなかったようで、グレイらの率いる軍はいまのところ敵軍に遭遇することはなくここまできていた。
 さて本番はこれから、というところで、剣兵隊は馬の歩みを止め、遠くに見えるネイル軍の様子をうかがっていた。
「止んでいますね」
 そう静かな声で云ったのは、副隊長のオーイエルだった。芦毛の馬に乗りながらやや細く青い目を谷底に向けて彼が云うと、その前にいたグレイが相変わらず厳しい顔で答えた。
「偶然だ。月に一度、この谷の風は止む」
「でも、我々にとっては有利です。突撃戦では風で舞い上がる砂を気にする兵士は多いので」
「だから、これは勝利の女神が与えてくれた好機だと? 宗教的だな」
「そうかもしれません。でも兵士達を鼓舞する材料にはつかえるかと思います」
 オーイエルの言葉に、黒毛の立派な馬にまたがったグレイはそこではじめて副隊長の方へ顔を向けた。
「――やはり軍を率いるのは、俺よりお前の方が向いている」
「なにをおっしゃいますか。グレイ隊長は全ての兵士にとって尊敬の的です。隊長に力で勝る人間などわが軍にはいませんし、力のある者が上に立つのは軍では当たり前のことです」
「だが、力というのはなにも剣の腕だけじゃない」グレイはオーイエルを振り返って云った。「俺は人にあれこれ指図するよりも、自分で動いて自分で解決したほうが達成感が得られる人間だ。人を遣う『力』は、お前の方がよほど長けていると俺は思っている」
「私などは、まだまだ至らぬところが多い若輩者です」
「老若は関係ないさ。状況と、資質次第だ」
 そうして二人が話していると、後ろからもう一頭の馬が駆けてきた。栗毛の馬に乗って多少あわてた様子でやって来るのは、若くしてグレイの側近になっているラッシュだった。
「隊長! 隊長〜〜!!」
 大声を上げながら二人の近くまで来ると、ラッシュは馬を止めた。無駄に息の上がっている彼の様子を見て、グレイが嘆息する。
「若輩者とはこういう人間のことをいうんだ、オーイエル」
「……そうですね」
 苦笑する副隊長に、ラッシュは戸惑った表情を浮かべた。
「な、なんか俺の顔についてるっすか?」
 オーイエルが云う。「いや、なんでもない。それよりもう少し落ち着け、ラッシュ。知らせがいくら緊急でも、冷静さは欠くな」
「す、すみません。急いで知らせなきゃいけないと思ったんで、つい……」
「で、なんだ」グレイが尋ねると、ラッシュが向き直って云った。
「城からの連絡で、ミコールの大導師フェルトール様が、ネイル軍の魔法兵器に動きを感じているとのことです。どうやら向こうの陣を出て、鉄の壁の方へその兵器を運んでいるらしいっす」
 グレイが眉を少し上げる。オーイエルは云った。
「向こうも出撃してきた、ということでしょうか。こちらの動きにあわせて?」
「それにしては、相手の反応が早すぎる。鉄の壁を谷の上から回りこむには馬でも二・三時間はかかる。俺たちはほぼ休みなくここまで来たから、斥候に見られていたとしてもまだ向こうの陣内まで帰りつけていないはずだ」
「でも昨日廊下で会ったとき、早ければ今日には魔法兵器が動き出すって、あの魔道師は言ってたっすよ。偶然じゃないっすか」
 ラッシュの言葉に、止まっている風のことが少しだけオーイエルの頭をよぎった。
「いや、それにしてもこの時間というのは、タイミングが良すぎる。剣兵隊が抜けて城内の兵士が薄くなったところを突く、というネイル軍の作為的な考えが見える。――隊長、これはあるいは」
「情報がもれていた、ということか」
 グレイはつぶやくように云うと、険しい表情のまま黙り込む。
 剣兵隊が出撃する際の懸念のひとつが、それによって警備の薄くなったすきを突かれることだった。そのため、グレイらは城を出てから休みなく馬を走らせ、可能な限り短い時間で相手陣内へ攻撃をしかける予定だった。だがネイル軍は、ガダルカからもネイル軍の陣地からも遠いちょうどこの位置で動きを始めた。これをただの偶然ととらえるには都合が良すぎると、オーイエルは考えたのだった。
 グレイは情報がもれた可能性を頭の中で探っているようだったが、それもほんの少しのあいだだった。
「オーイエル、進軍はひとまず中止だ。魔法兵器の動きをここから見る」
 すばやい判断を下すグレイに、この部分ではまだまだかなわないと感じつつ、オーイエルは答えた。
「分かりました。ラッシュ、伝令を」
「了解っす」
 ラッシュが馬の頭をめぐらせ、もときた道を引き返す。
 砂ぼこりをあげて駆けていく彼を二人は見届けた。風がないため、ほこりは長くそこに漂ったまま、少しずつまた地面に落ちていく。そんな光景をながめながら、オーイエルはグレイに尋ねた。
「隊長――どこからでしょうか」
「分からん。本当に情報がもれていたのかも、な。それを確かめる手立てがいまの俺たちにはない。それよりも両方に対応できる態勢を整える。もし鉄の壁が魔法兵器で突破されたなら、すぐに城へ戻れるよう手配してくれ」
「はっ。ただ、城の内部でなにかあった場合は――」
「そういうことなら、ノガンがのろしを上げるだろう。そのときはまた別に考える」
「承知しました」
 云って、オーイエルも剣兵隊の隊列へ戻る。
 ガダルカの長い一日は、不穏な空気を含んだままこうして始まった。




 
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