死神と女神の狭間 第三章  

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 フェルトールの占いによって『凶兆』のみられた、ガダルカの中央部と南部。
 その中央部に堂々とそびえたつ城の最上階にあるバルコニーから、ベル王弟は遠くにみえる砂煙をながめていた。
 ネイルの軍勢が攻めてくる。しかし彼らの前に立ちはだかるのは、黒光りする重々しい鋼鉄の壁。全てを遮断する絶対的な砦。後ろから軍師トゥーレがやってきたとき、王弟がその光景をあざわらっているのが見てとれた。
「見よ、トゥーレ」王弟が云った。
「性懲りもなくネイルのやからどもがやってくる。あのような岩で『鉄の壁』を打ち破れるものだと信じてな。あわれだとは思わぬか、ん?」
「は、まったくそのとおりでございますな」
 トゥーレが骨ばった細い顔をいくぶんひきつらせながら答える。ベル王弟には危機感などまるでないようで、
「やつらがあれを使ってなお壁を破壊できなかったときの光景を思い浮かべるだけで、わしは笑いがとまらんぞ。そしてやつらが敗れて本陣に帰るころには、剣兵隊がむこうの陣地をすべて始末していることだろう。こんなに簡単な勝ち戦はないぞ」
「おっしゃるとおりです」
 だが、トゥーレはやや気の乗らないまま返事をする。その空気が伝わったのか、ベル王弟は彼の方を振り返った。
「……トゥーレ、いまお前が会っていた客はだれだったのだ? 開戦直前のこんなときにやってくるとは――」
「いつものネズミです、王弟」
 トゥーレの言葉に、王弟は気がついたように鼻で笑った。
「ネズミ――か。あの不吉な男め、こんなときにやってくるとは、縁起の悪いことこの上ない」
「まったく、私も同感です」
 トゥーレがひとつため息をつく。そうしながら、さきほど離れの接客室で応対した相手のことを頭に浮かべ、またため息をついた。
 彼はついさっきまで、不吉な『ネズミ』と会っていた。
「そのネズミ――なんという名だったか」
「ロイ=ギルです、王弟」トゥーレはその名前を口に出すのも嫌だというような苦い顔つきで云った。「黒髪で黒灰色の目、黒い色の服を身にまとった、影から出てきたような男です」
「その男が、いまごろお前になんの用だったのだ」
 ベル王弟が尋ねると、トゥーレは答えるまでにしばし間をあけた。
 答えるのをためらっているわけではなかった。ただ、なんと答えればいいものか考えがまとまらなかっただけだ。
 トゥーレのもとにギルが尋ねてきたのは、つい一時間ほど前だった。
 それは不意だった。番兵の許しもなく、いきなり彼のいた部屋の扉が開けられた。
 そこに現れたのは、彼らが『ネズミ』とさげすんでいる暗殺者ギルドの総統ロイ=ギルと、そのかたわらにいる用心棒。
 当然、彼らを止めなければならなかったはずの番兵二人は、両方とものびていた。
 彼らは平然と部屋に入ってきて、トゥーレとなかば強制的に向き合うことになったのだった。
 それから、ついさきほどまでトゥーレはギルと会話をしていた。だがたいした内容ではなかった。近況と、世間話。それだけに終始した。
 あごに手をあてながら、さきほどあったそんな出来事を思い起こし、彼は困った様子で王弟に云う。
「それが――特に用事というものはなく、ただあいさつに来ただけだ、と」
「あいさつ――?」
 トゥーレが予想したとおり、王弟はいぶかしむような顔をした。
「それだけのために、わざわざここへ来たのか」
「近くを寄っただけだと言っていましたが。おそらく我々のところへ仕事を取りに来たのでは、と」
「フン。その男もひまなことだな。それともよほど仕事に困っているのか」
 ベル王弟はネイル軍に対してしたときと同様、馬鹿にしたように鼻であしらった。
「ここ最近、その男へ仕事の依頼をしたのか」
「は。前回が一年前――ネイルの水軍参謀だったスコットを殺させました」
「そうか」
 あまり興味もなさそうな様子で、ベル王弟はまた思考をネイル軍の方へ向ける。それへ、トゥーレはひとりごとのように云った。
「――あの男は、何を考えているのかわかりません。将来的に、王の立場を危うくすることにもなりかねないかと」
 意外そうな顔で、ベル王弟は再びトゥーレに向かった。
「わしの立場を危うくする? どうしてそう思うのだ」
「あの男はおそらく、国家間や国内の微妙な力関係のことなど一切考えていません。金さえもらえば組織を使ってだれでも平気で殺すような、危険な男です。いつも我々の味方になってくれるとは限りません。いっそのこと、機会をつくって始末してしまった方が……」
「それは本国の人間に任せればいいだろう。このガダルカの人員だけではそこまで手を回すことなどできまい。まったく、私はサガン国王ファルヴァン四世の弟だというのに、このような辺境にとばされてはろくに身動きもできぬ……」
 トゥーレの進言に、ベル王弟はやはり関心を示さないまま、自分の境遇にぶつぶつと文句を云うだけだった。
 トゥーレには、ギルと会って感じるものがあった。
 だからこそ、いまベル王弟に進言した。
 彼が感じたもの。
 それは、恐怖。
 ギルに面と向かったときのことを思い出しただけで、彼はいやな汗をかいた。
(王弟はまだその男と直接面識がないから、実感がわかないのかもしれない)
(あのギルという男――あいさつにきただけと言ったが、それだけとは思えない)
(もしかすると――やつはネイル側と取引を交わして、こちらのだれかしら――例えば、王弟の命を狙おうとしているのでは――)
(いや、まさか。それなら我々の前にわざわざ姿をさらすような真似はしないはず)
(――いやまて。あの男なら、それくらいのこともやりかねん。むしろ――)
(やつがここへ来たのは、私への警告だったのかもしれない――)
 ギルが去る間際――
 彼の中で、ギルの云ったひとことが頭をよぎった。


 ――せいぜい、まきぞえをくわないように気をつけろよ。


 云われたときは、意味を図りかねた。
 だがいまにして思えば、それを伝えるためにあの男は――
 まきぞえとは、つまりガダルカのだれかが殺される、そのまきぞえをくわないようにしろということだったとしたら。
 考えすぎだろうか。だが、ギルを前にするとあらゆる可能性がかいま見えた。
 あの灰色を含んだ黒い目の奥に、なにをたくらんでいるのか――
「なんだ、トゥーレ。なにか思うところでもあるのか」
 ベル王弟に云われ、彼は気がついたようにあわてて首をふった。
「いえ、なんでもありません。いまはあのようなネズミのことより、これからの戦いに目を向けるべきでしょう」
「当然だ。この戦いは我々が誇るべきガダルカの戦士たちが幾人も命をかけている。たかが殺し屋のことを気にかけている場合ではない」
「そうでした。申し訳ありません」
 頭を下げながら、トゥーレは思った。
 おそらくこの王弟は、ガダルカの戦士たちの命など、踏み台にしか思っていないだろう。使う言葉は立派だが、思考は私と似ているはずだ。
 私も、剣兵隊だの鉄兵隊だのといったガダルカの人間の命に興味はない。ここで手柄を立てて、はやく本国へ帰りたい。いや、帰らねばならない。こんな辺境の出城にいては、出世の道は遠のくばかりだ。私はここで終わる人間ではない。『鉄の壁』を破壊しようとするネイル軍を完全にたたきつぶし、私の功績を本国に見せつけるのだ。
 トゥーレは裏に秘めた本心を思いながら、自分の理想の未来へ頭を走らせた。
 壁の向こうに見えるネイル軍は、着々と彼らのいる方へ近づいてきている。開戦は、もう目の前まで迫っていた。










 あとでわしも行くから、先に地下への入り口を開けて待っていなさい。
 そう主人であるモスカートに云われ、リュールは城からやや離れた民家兼倉庫であるこの場所にやってきていた。
 民家兼、といいながらも、居住空間はもう十年以上使われておらず、大量のほこりがたまっている。倉庫の方は一年に数回ほど人の出入りがあったものの、やはり最近はだれも入っていない。城の人間からも町の住民からも忘れ去られた、なきがらのような古い建物。
 ただし、モスカートとリュール、そしてネイル軍の人間には、それがあてはまらなかった。
 モスカートはかなり頻繁にこの場所を訪れていた。理由は明確だ。この倉庫部分の床にある隠された部分を開くと、昔、鉄鉱業が盛んだったときに使われていた作業用のトンネルへ続く入り口がある。そしてそれはガダルカの地下に張りめぐらされたトンネル網につながっている。順序を間違えずそこを通ると、『鉄の壁』の下を通り、そしてネイル国内にまで続く一本の道にたどり着けるのだ。
 いまやガダルカから鉄鉱業がすたれて久しく、このトンネル網の存在を知っているものは数多くいても、その中を正確に歩くことのできる者はごく少数だった。そしてネイル国内まで延びるただひとつの道の存在を知っていて、かつそこにたどり着くことのできる者は、現在では代々の鉱山局長に限られていた。とはいえ、トンネルは土と岩で完全にふさがれており、いまでは地図上の記録としてしか存在が残されていなかった。
 このことに気づき、その利用方法を考えて実行したのは、現鉱山局長のモスカートだった。
 ネイル側と密談を交わし、ふさがれていたトンネルをむこう側からネイル軍の作業員に開けさせた。そしてネイル軍の作戦が成功するよう、モスカートはガダルカの情報を定期的にネイル側へ流していたのだった。
 リュールもその場に三回ほど居合わせた。入り口を開けるにはやや重い木板をどかさなければいけないため、太り気味の体型で力もまるでないモスカートに代わってリュールが(彼女も非力ではあるが)よくその作業を行っていたのだった。
 リュールは昨日、モスカートから初めて聞かされた。
 これから、ネイル側にいる殺し屋たちを地下通路に案内する。そしてガダルカに侵入した後、彼らは大導師フェルトールとベル王弟を暗殺しにむかう、と。
 リュールに、驚きはなかった。
 むしろ傷心しきった心の中で、どこか納得さえしていた。
 どうしてウェインとウェラを殺さなければいけなかったのか。その理由をつきつめれば、結論は簡単だった。
 フェルトールを暗殺する。その障害となるため、あらかじめウェインとウェラを『除いて』おく。
 彼女がモスカートから頼まれたこととは、つまりそういう目的なのだった。
 彼女はうすうすそれが分かっていながら、ウェインを殺そうとした。だから、いま自分の恩師が暗殺者の手にかかって殺されようとしていると知らされても、驚くようなことは何一つなかったのだった。
 しかし――
 けっきょく、彼女はウェインを殺せなかった。
 リュールは倉庫のすぐ外の路地裏にたたずみながら、昨日のことを思っていた。
 あのとき。
 毒を入れたカップを払い、自分はウェインの前から逃げた。自分をとりまく全てから逃げた。
 逃げたいと思った。
 でもいま自分がいるのは、もとの位置。
 なにも変わっていない。なにも状況は変わっていない。ただウェインの前からとつぜん逃げた、その事実が残っただけだ。
 建物にはさまれ影が落ちた路地裏の地面をながめながら、リュールはおだやかな波の上に浮かんでいるように、思考を力なくゆらしていた。
 私は――
 これから、どうなるんだろう。
 全てを、だれかに話したい。話すことで、少しでも楽になりたい。だがこんなことを話せる人間は、彼女の周りにはいなかった。
 モスカート様には――リュールは思った――モスカート様には、ウェインとウェラの暗殺は命じられていない。たのまれたが、もう人を殺すのは無理だと一度断ったままだ。
 だからこれは、自分自身の問題。
 みずからすすんで、ウェイン君に毒を盛ろうとした、自分の問題。
 そのことに対する、自分への嫌悪感。
 何が正しいのか、何が間違っているのか。わからなくなってきた。
 父も母も大切にしたい。モスカート様の力にもなりたい。でも、友人も守りたい。
 それがかなわないのなら――。
「――ん?」
 と。
 リュールの耳に、男の声が聞こえた。
 低い声。自分の左側。
 彼女がぱっとふりむく。そこに――
 背の高い、男の姿があった。
「あっ……!」
 思わず声をあげ、半歩後ずさるリュール。
 彼女の目に、黒い服を着た細い目の男が映る。
 ここは裏路地。それも、城からかなり離れたところにある、ひとけのない区画。開戦直前だから表通りにすら人通りがめっきり絶えている。それなのに――。
 リュールはこんなところにだれかが来たことに対して戸惑いながら、その男の容姿を見てさらに驚いた。
 線の整った黒い上下の服装。髪は短髪だがボサボサで黒く、瞳は灰色を含んだ黒で刺すように鋭い。年齢は三十代前半ごろか。よそ行きのいでたちから、明らかに城の使用人でも、兵士でもなかった。
 しかしなにより彼女が感じたのは、その男のまとっている枯れたような『空気』だった。
 こちらをみるその視線だけで痛みを感じるほど強い目つき、落ち着きつつもどこか緊張がはりつめた雰囲気。いまリュールの目の前にいる男は、これまで彼女がガダルカで――いや、人生でかもしれない――出会っただれにも似ていない、灰のような空気をただよわせていた。
 まだリュールと男の間は離れていたが、そこからでも彼女は威圧感のようなものを感じた。
 その男が、こちらの方をじっと見つめる。そこでようやく、彼女は自分があまり良くない状況にいることに気づいた。
「こんなところで、何をしているんだ」
 数歩近づいてから、歳に不相応なしわがれた声で、男は尋ねた。
 ここへ人がくるとは思っていなかったため、リュールは答えに窮した。彼女は倉庫の外に出ていたことを後悔したが、あとの祭りだった。
 まさか本当の理由を答えるわけにはいかない。なにか言い訳をつくろわないと。彼女は心の中であわてながら、おもてには出さないよう努めつつ答えた。
「わ……私の主人にたのまれて、ここの倉庫に掃除用具を取りに来たんです」
 心に汗をかきながらそう云ったものの、男はまだリュールの方をじっと見つめてくる。
 すると、男はなかばあきれたように云った。
「ウソをつけ」
 あっさりと見透かされ、一気に表情がこわばるリュール。男はなおも云う。
「戦いの直前に掃除を命じるとは、日より見もいいところだ。見えすいたウソをつくな」
 本当は何をしていたんだ、と男はさらに訊いてくる。リュールは視線を合わせられず、うつむき加減でつぶやいた。
「……その……」
 そして、リュールは黙りこんでしまった。彼女は笑顔で事実をごまかすことはできても、とっさにウソをつくのは下手だった。
 これからネイル軍の暗殺者を案内することがばれたら、どうしたらいいだろう。リュールは不安にかられながら、さきほどの悩みとあいまって冷静さを失っていた。
 追求されることを恐れながら、うまい言葉が思いつかず、リュールは凝り固まる。だが少しすると、男の方が調子を変え、云った。
「――ま、別にかまわないが。何か隠し事がある様子だが、俺はここの人間じゃないから、お前が何をしていようが関係ない。無理には訊かん」
 そう云われ、リュールが顔を上げると、男は服の内側から煙草を取り出していた。
 リュールはほっと胸をなでおろした。それとともに、やはりこの男がガダルカの人間でないことを知ってますます疑問を募らせた。
 よく考えれば、怪しいのは男の方だった。戦いの直前というなら、そんなときに外部の人間がこんなところに来ることのほうがおかしい。
 枯れた空気をまとった、黒服の男。見れば見るほど、リュールは不思議な気持ちにおそわれた。
 いま自分はモスカート様とともに、ガダルカを、サガン国を裏切ろうとしている。しゃべることでなにかぼろが出てしまわないよう、このままだまっている方が無難だ。彼女はそう思った。だが男の方を見ているとなぜか、自分とは全く異質な存在であるその人物に言いようのない興味をそそられた。
 触れるのは危険だと分かっている。でも触れずにはいられないような、奇妙な好奇心。リュールは男が煙草に火をつけて吸い、煙をはく所作を、眼鏡を通した淡い目でただ漠然とながめていた。
「……あの」
 いつのまにか、リュールは小さな声を発していた。男が目線だけ向けてくる。
「あなたは……何をしにここへ……?」
 怖さと興味深さがないまぜになった心で尋ねるリュールに、男は答えた。
「城にやぼ用があった。もう済んだから、これから帰るところだ」
 城に――
 ガダルカの人たちは、彼のことを知っているのだろうか。
 もし城にこんな人が通っていれば、いやでも目立つだろう。体が特別大きいわけでもどこかとっぴな体型であるわけでもない。なのに、男はそれくらいの存在感をもっている。
 いったい、この人は何者なのだろう。ひとつだけ確かだと彼女が思えたことは、この人はガダルカの関係者でも、サガン国の人間でもないということだった。確かな根拠はなかった。ただ男の態度がそうものがたっているように、彼女には感じられたのだった。
 リュールは、男に聞きたいことがあるような気がした。しかしそれが頭の中でうまくまとまらない。そのまま彼女が男の方を見ていると、今度は向こうから声をかけてきた。
「――なんだ、何か話したいことでもあるのか」
「えっ……」
 云われ、リュールは一瞬、心の中を読まれたような気がして戸惑った。
「……どうして、ですか?」
「顔にそう書いてある」
 男が煙草をくゆらせながら云う。白い煙がリュールのほうまでやってきて、彼女の周りを流れていく。彼女は、あまり煙草の香りが好きではなかったから顔をそむけようとした。だがその煙は、これまで経験したことのないどこか甘い香りを含んでいて、彼女はまた少し驚いた。
 この人は、きっと自分の全く知らない世界にいる人間なんだ。彼女はそう思った。
 そうだ。
 この人なら――
 わずかに芽生えた自分の考えに、彼女は心の中でかぶりをふった。
 それはきわめて危険なことだと、彼女には分かっていた。どこのだれなのかわからない人間にそんなことをして、ガダルカに秘密がばれでもしたら。
 でも――
 リュールは、話したかった。
 自分には抱えきれない秘密を。
 たずねたかった。
 自分には解決できない悩みを。
 教えてほしかった。
 先の見えない自分の未来を――。
 相手がだれなのか深く知らないからこそ、打ち明けられることもある。
 彼女が自分の考えに沈んでいると、男はまだ半分ほど焼け残った煙草を地面に投げ捨て、それを踏みつぶした。
「別に話すことが無いのなら、俺はもう行く。せいぜい、戦争のまきぞえをくわないように気をつけろよ」
「あっ――」
 男が去ろうとする。リュールはそれを見つけると、反射的に呼び止めた。
「待って! ……ください」
 彼女の言葉に、背を向けようとしていた男がまた振り返る。それへ、リュールは目を向けた。ためらいがちな気の弱い声で云う。
「あの……こんなこと、見ず知らずの人にお願いするのは変かもしれませんが……」
 リュールの言葉に、男はただ黙って首を向けたまま。彼女はむこうからの返事がないのをみてから、続けた。
「……これから私の言うことは、だれにも話さないでほしいんです。それでも、聞いていただけますか――?」
 男は再び姿勢をリュールの方へ向け、云った。
「ああ。そっちがそれでよければ、な」
 男の短い言葉に、よどみはない。リュールは意を決した。
 これは――
 神様がくれた、機会なのかもしれない。
 彼女はそう信じて、できるだけはっきりした声で話した。
 自分の抱えていた秘密を。
 ガダルカを裏切ろうとしていた事実を。
 家族を守るために、同僚を殺し、友人を殺そうとしたことを。
 いまであったばかりの見ず知らずの男に。
 彼女は、自分がいましていることに恐怖を感じていた。おかしいとも思っていた。でも、いったん口から流れ出した言葉の洪水は、もうとめようがなかった。
 自分の中にある重みを、苦しみを、全てはき出しているような感覚。言葉が出ていくほど、肩に乗っていた重荷が下ろされていくような解放感。
 リュールは、目の前の男へ全てのあらましを、話した。話すうち、なぜか自然と涙がこぼれた。こぼれてもそれをぬぐいながら、なお彼女は話し続けた。
 男はなにも云わずただ黙ったまま、彼女の話を聞いていた。うなずくでもなく、あいづちをうつでもなく、ただそこにいて、彼女へ深い穴のような黒い目を向けていた。
 やがて彼女が話し終わり、二人の間に静寂が落ちた。
 リュールは目を赤くして、視線をやや下げながら小さくつぶやいた。
「……ごめんなさい」
 彼女のかすれた言葉にも、男は反応を示さなかった。
「……ひとりごとみたいに、なりましたけど……」
 全てを話したことに、リュールは後ろめたさと恥ずかしさを感じていた。だがそれよりも、心がどこか軽くなったことのほうが、彼女には重要だった。
 そうしてしばらく、お互いなにも云わない時間ができた。
 まだモスカートの来る気配はない。二人のいる裏路地にはもちろん、表通りにも人の通る気配はみじんもない。谷風もなく、いつもより静かな気配が二人の周りをかこっていた。
 リュールが完全に話し終えたのを見て取ったのか、ようやく男が口を開いた。
「――話はそれだけか」
 男の言葉に、リュールは静かにうなずいた。すると、男はまたすぐに彼女に背を向けようとする。
「あっ……!」
 リュールは思わず呼び止めた。男が顔だけを向ける。
「なんだ。話は終わったんじゃないのか」
「は、はい。でも……その……」
「心配するな。他言はしない。もっとも、他言したところで俺が得になるようなことはなにもなかったがな」
 男の言葉に、だがリュールは物足りなさを感じていた。
 確かに、男は自分の話を聞いてくれていた。
 でも――
 形にならない感情が、また彼女の胸に生まれていた。
 これを話せば、なにか解決するんじゃないか。なにかを、この人が教えてくれるんじゃないか、と。
 だが、相手は見知らぬ他人。冷静になれば、そこまで希望するのはおかしな話だった。
 リュールは律儀に頭を下げた。
「はい……すみません、引き止めてしまって……ありがとうございました」
 云って頭を上げると、リュールは視線を下げたまま、もう男の方を見ようとしなかった。
 私は、なにをしているんだろう。
 ウェイン君にも、フェルトール様にも秘密にしていたことを、こんな人に話すなんて。
 なにも期待できることなんて、なかったはずなのに――
 昨日と同じ。また、もとの位置。
 状況は変わらない。男に話をした、ただその事実が残っただけ。
 そうしてまた男に出会う前のように、倉庫の壁にもたれかかろうとしたとき。
 男が云った。
「――サガン国、メルテザック市のサークレット」
「……えっ?」
 なにを云われたのか一瞬分からず、リュールは聞き返した。顔を上げると、男はまだこちらの方を向いているのが見えた。
「メルテザック市の……」
「サークレット。もしお前がこれから先、どうにも立ち行かなくなるようなことがあれば、そこをたずねたらいい」
「立ち行かなく……」
 その言葉の意味をはかりながら、リュールは云った。
「あの、それはどういう――」
「自分で考えろ。もしお前が本当に追いつめられて、それでも現状をなんとかしたいと思ったなら、そこへ来ればいい」
「…………」
 追いつめられたら。
 いったいどういった状況を指すのだろう。彼女は考えたが、まだ具体的に想像できなかった。
 ふと、彼女は思考の海から抜けて男の方を向いた。
「そういえば、お名前を――」
 しかし――
 男はすでに、いなくなっていた。
 彼女はすぐに表通りに出た。だがそこにもさきほどまでいたはずの男の姿は、見られなかった。
 奇妙な気分にひたったまま、リュールは人のいない道を眼鏡を通してながめた。
 あの人は、いったい――。
 印象的な男の姿が胸に刻まれたまま、リュールはただぼう然とするしかなかった。




 
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