死神と女神の狭間 第三章  

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 冷たい空気。水滴の落ちる音。
 暗い通路。かびた臭い。
 ひたひたと響く、六人の足音。
 ここはガダルカの地下道。
 暗闇と静寂が支配する、地上とは全く違う顔をもつ異空間。さながら洞穴のような、いや洞穴そのものといっていいほどの、なまぬるい空気の漂う妖しげな世界。
 ランプで足元を照らしながら歩く石造りの道は傷みが激しく、注意を払っていないとすぐにつまづいてしまうほど足場が悪い。
 通路は人がすれ違うのも難しいほどの幅しかなく、少し背の高い者であれば常に身をかがめなければならないくらい天井も低い。実際、暗殺者の一人であるエルフの男性はもういくども腰を折って上からせりだした岩をよけている。
「さすがにめったに使われていないだけあって、通りにくいことこの上ないな」
 そう云ったのは、これも暗殺者の一人であるやや年上の男。それに対して、先頭を歩くモスカートが答えた。
「これでもはじめにくらべれば通りやすくなったほうだ。ふさがれていたこの通路をネイル軍の兵士らをつかって開けさせたころは、こんなものじゃなかったぞ」
「ま、通れるだけありがたいってことか。本当なら鉄の壁をこえて侵入する方法を考えにゃならんかったんだから、それに比べれば楽といえば楽だな」
「文句ばかり云ってないで、だまって歩きゃいいんだよ」
 そういうのは、わりと体格のいい女性。やはり暗殺者の一人だ。
「根性無しのマクギガンには、こんな道でもなにかと苦労するかもしれないけどな」
「んなわけねえだろ、ミラ。一般人としてのただの感想だ」
「あたしら一般人じゃないだろ。なに気取ってんだ」
「気取ってねえ! いちいちあげ足とるな!」
 すると、エルフの男性が耳を押さえる。
「マクギガンさん、大きな声出さないで下さい。ただでさえ私は耳がいいのに、ここでは声が反響しますから……」
「それ、プチ自慢?」
 女性が冗談っぽく云う。殺し屋の人でも冗談を云うんだと、リュールは思った。
 先刻、素性の知れない男がいなくなったあと、しばらくしてモスカートが現れた。それからすぐに二人は倉庫の入り口から地下道に入り、ネイル側で待っていた暗殺者たちと対面したのだった。
 リュールは暗殺者というものをみるのが初めてだった。暗殺者は、他人の命を奪うことをなりわいとしている者。自分とは縁のない、遠い世界の人間がなるものだと、彼女は思っていた。人の命を軽く考えている残忍かつ粗暴な人間、もしくは精神のどこかが病んでしまった人間が殺し屋になるのだと、彼女は勝手に想像していた。だから面と向かうのが恐ろしく、はじめはモスカートの後ろに隠れるようにして暗殺者たちをのぞきみるようにしていた。
 だが彼女が出会った「暗殺者」は、そんな想像とはかなり違っていた。
 暗殺者は四人。どの人も、武装こそしているもののそれほど目を引くような外見ではない。モスカートとのやりとりを見ていても、べつだん変わった点はみられなかった。エルフの男性にいたっては、むしろ礼儀正しささえ感じたくらいだ。これならさきほど遭った黒い服の男の方がよほど暗い印象だったと、彼女は思った。
 地下道に入ってからも、これからガダルカに侵入して大導師フェルトールとベル王弟の命を奪いにいくとは思えないほど、緊張感に欠けた会話を続けている。リュールは自分の前を歩く四人に対して拍子抜けしたような感覚を抱きながら、本当に彼らが自分の生活のために人を殺す残忍な人間なのかと疑いたくなった。
「そういえば」モスカートのすぐ後ろを歩くエルフの男性が云った。「城の方はどうでしょうか。なにか変わったことはありましたか」
「いや、なにも。全てが順調に進んでいる。そなたが心配していたグレイの剣兵隊も、いまは全員外に出ている。城にいるのは鉄兵隊だけだ」
「そうですか――では、あとはできるだけすみやかにフェルトールを始末すればいいですね」
「そういうことだ。フェルトールを始末したあと、ネイル軍の魔法兵器で『鉄の壁』を破壊すれば、王弟はあわてて裏口から逃げてくるだろう。そなたらはそこをおさえればいい」
「フェルトールには、なにかしらの警備がついているんだろうな」マクギガンと呼ばれた男が訊くと、モスカートが複雑に枝分かれする道を選びながら答えた。
「もう知っていると思うが、フェルトールは『物見の塔』の最上階にいて、そこに至るまでにいくらか塔の警備兵がいる。それに加えて、フェルトールの連れてきた若い魔道師が二人、身辺警護についている」
 聞いて、リュールは思わず体をすくませた。
 ――ウェイン君と、ウェラさんのことだ。
「魔道師か、やっかいだな……。マクギガン、あたしはほかのやつをやるから、そいつら頼むな」
 ミラが云うと、マクギガンが返した。
「お前が前衛だろ! 魔道師が苦手だからって勝手に押し付けんな!」
「苦手なもんは苦手なんだっての。あんたの武器のほうが魔道師相手には相性いいんだから、そのときだけ前に出てくれりゃいいんだよ」
「そんな都合よくいくか!」
 二人の会話に、エルフの男性がまた耳をふさぐ。
「だから……大声で話すのはやめてください……」
 殺し屋たちの調子の良い会話の一方で、リュールは急に現実に引き戻された気がしていた。
 ――そうだ。
 この人たちをこのまま行かせたら、ウェイン君とウェラさんはきっと――
 きっと、殺されるんだ――。
 リュールの顔が青ざめる。胸がしめつけられるような感触が、彼女の中で広がる。
 それとともに、激しい自己嫌悪の感情――
 リュールは手にしたランプに照らされたほの暗い殺し屋たちをみながら思った。
(私は結局――)
(ウェイン君も、ウェラさんも、フェルトール様も、見殺しにしようとしている――)
(分かっていたこと。それは、ずっと前から分かっていたこと)
(だって私は、ウェイン君を殺そうとしたんだから――)
(ウェイン君――)
 リュールの頭の中を、心の奥底から勝手にわき出た想像が支配した。
 ウェイン君が、目の前の殺し屋四人に襲われ、傷つけられ、殺される。
  ウェイン君が、目の前の殺し屋四人に襲われ、傷つけられ、倒され、殺される。
   ウェイン君が目の前の殺し屋たちに襲われ、反抗して傷つけられ、倒され、殺される――


 リュールは首をふった。
 だれにも見られない、列の最後尾で、そっと。
(私は――)
(お父さんとお母さんを――)
(ウェイン君――)
(でも私は、ウェイン君のカップを手で払った)
(お父さん、お母さん――)
(でも私は、ウェイン君のカップを手で払った――)
(ウェイン君――)
 矛盾した思いに、リュールはまた自分の立ち位置が分からなくなっていた。
(フェルトール様なら、暗殺者の襲撃くらい簡単にはねのけるような気がする。でもそれじゃ、お父さんもお母さんも助からない)
(モスカート様についてネイルに降れば、いまより良い生活ができる。お母さんの病気を治るし、お父さんも立ち直れる)
(でもそれなら、ウェイン君にすすめられたとおりミコールに――)
(ミコールに帰ったほうが――)
 混乱してなにもできない自分が、ここにいる。
 リュールはどれにもつかず、どれに決めることもなく、ここまで来てしまっていた。
 いまリュールが身を任せているのは、モスカートだった。このままなにもしなければ、暗殺者たちはウェインとウェラを退け、フェルトールを殺害するだろう。そして自分はモスカートとともにネイル国へわたり、両親とともに安定した生活を送ることになるだろう。その代償として、自分は二度とミコールに帰ることができなくなる。それをはじめに望んだのはリュールだし、そうすべきだと考えたのは確かにリュール自身だった。
 それにたとえ状況を変えたくても、いまの自分にはどうすることもできないとも、リュールは考えていた。ここまできてしまった以上、いまさらウェインの言葉に従うのは不可能だった。彼女には、いま眼前にいる暗殺者四人の仕事をふせぐ手立てなど、とても思いつけなかった。
 最後尾にいる自分のすぐ前には、さきほどから緊張感などまるでないかのようにしゃべる、ミラと呼ばれた女性の暗殺者がいた。軽めの防具に、得体の知れない短剣状のものを手にしている。きっと魔法武具かなにかだろう。この一人と相対するだけでも、戦うための魔法などろくに使えないリュールには考えられないことだった。
 もう、道は決していた。
 すでに、リュールは分岐路を超えてしまっていた。
 主人に従わずミコールに帰るのか、それともサガンとミコールを裏切ってネイルで暮らすのかという分岐路を。
 後戻りはできない。ここまで来てしまったからには。
 リュールはそうふんぎりをつけようとした。だが、どこか釈然としない部分も、心に残っていた。
 本当に――
 このままでいいのだろうか。
「――ところでさあ」
 ミラが口を開く。ふとリュールがみると、彼女が自分の方を振り返っているのに気づく。
「さっきから気になってたんだけど、あんたがつけてるそれ、もしかして眼鏡?」
 はじめて暗殺者からまともに話しかけられ、それも他愛のない質問に、リュールは戸惑いながら多少うわずった声で返事した。
「は、はい。そうです……」
「ふ〜ん。けっこう大きいのつけてるね。そうとう目が悪いのか?」
「はい、あの……十三のときにとつぜん目が悪くなって、字が読めなくなって、それから……」
「ミラ、おまえよく眼鏡のこと知ってたな」
 前を歩くマクギガンが云うと、ミラが答えた。
「まあね。あたしにだって一般的な教養はあるんだ。――でもよかったね。そんな高いもの買ってくれる人がいて。親?」
「父です。私の目が悪くなったってわかってから、すぐに買ってくれて……」
「なら、両親に感謝しなきゃな。父親からもらった大きな眼鏡と、母親からもらった大きな胸は、あんたの大事な宝だもんね」
 ――胸?
 きょとんとしているリュールの代わりに、マクギガンが云った。
「おい、嬢ちゃんが反応に困ってるぞ、ミラ」
「だってこの子、けっこう胸あるよ。あたしやリースリングなんかよりさ。ちょちょっとメイクして眼鏡とあわせればけっこう目立つし、そのへんの男くらい簡単にひっかかりそうだけどな。そう思わないか」
「あの……そ、そんなことは……」
 顔を赤くしながら困った表情をするリュール。代わりにマクギガンがあけすけな声で云う。
「ま、どっちにしろミラみたいながさつな女にひっかかる男なんて三国中探してもいないだろうけどな」
「それどういう意味だ、マクギガン」
 また大声を出そうとするミラを、エルフの男が振り向いてとめる。
「いい加減にしてください、二人とも。しゃべってるヒマがあったらこれからの作戦に集中してください」
「それ無理。あたししゃべってないと逆に落ち着かないからさ」
「なら、もう少し声のトーンをおさえてください。だんだん耳鳴りがしてきました……」
「ああ、わかったよ、わかった。トリッケンの鼓膜はひよわだな。じゃああたしは後ろの子とこっそり打ち明け話でもしてるよ」
 冗談めかして話す女性――ミラの様子に、リュールはやはり緊張感の解かれる思いがした。
 どうして――
 どうしてこの人は、こんなに明るいんだろう。
 殺し屋なのに。
 四人と会うまでは、余計なことは話さずに、ただだまって彼らを誘導することばかりを考えていた。でもこうして気兼ねなく話しかけてくる様子は、城にいたときのほかの使用人や兵士らと同じ。「普通の職」をもった人たちと同じだ。
 この人たちは、人殺し。それがなりわい。
 でも、そのことに――『人を殺す』ということに、毒されていない。支配されていない。
 この人たちは、いったい――。
 リュールは物思いに沈みながら、暗い道を歩く。歩きながら、ミラの前を歩くもう一人の女性に彼女はなんとなく目をとめた。
 四人の中で、まだひとこともしゃべっていない女性。だが四人に初めて会ったとき、リュールはその女の姿がもっとも印象的に映った。なぜなら、その女性はほかの三人に比べてあきらかに若い――自分と同じくらいの年齢にしか見えなかったからだ。
 流れるような長い黒髪に、紫色の瞳。リュールと同じくらいの背で細身の体型は、ミラと呼ばれた女性に対してとても戦場で格闘できるような体格にはみえない。ひょっとして魔法使いだろうか、とリュールは心の中で思いながら、地下道を歩いているあいまもその挙動が気になっていた。
 ――自分と同じくらいの歳の人が、殺し屋をしているなんて。
 リュールは知りたかった。
 あの人は、人を殺すということについて、どう割り切っているんだろう。
 上下とも黒い服を身につけ、ひどく落ち着いた空気をまとっている。その雰囲気は、さきほど地上で出遭った男のそれにどこか似ていた。
 そのまましばらく、リュールをふくめた六人は音の無い通路を歩いた。ときおりミラがリュールの方へ話しかけてくるほかは、ほとんどだれもしゃべらなかった。
 進むうち、通路の幅が広がってくる。支線から幹線へ、昔は大勢の人間が出入りしていたことがうかがえる場所に六人が入る。
「ここが出口だ」
 そうモスカートが云ったのは、これまでで一番広い通路にさしかかったときだった。
 壁際に細い階段が設けられており、それをひとりずつ慎重に登る。長年管理されておらず、気をつけていなければ崩れそうな足場を、モスカートが慣れたようにのぼっていく。
「だいぶ歩いてきたな」ミラがつぶやくように云った。「あんた、毎回こんな道を往復してたのか?」
 訊かれ、リュールはうなずいた。ミラはモスカートが階段をのぼりきって視界から消えたのを確認してから、小さな声で云った。
「これだけの時間を、それもこんなじめじめした暗い場所で、あのおっさんといっしょにいなきゃいけないなんて、あんたも大変だね」
「いえ、そんなこと……モスカート様は私にとっての恩人ですし、尊敬していますから……」
「そうなのか? そんなふうにゃみえないけどな。あたしはてっきり私服をこやしているだけの人間かと思ったけど――ああ、ごめんね。みもふたもない言い方だけど。でもあたしの勘ってけっこう当たるからさ」
 そのあいだに前の暗殺者たちが次々と上へ上がっていく。そして黒髪の女性があがろうとするとき、リュールは顔を上げて云った。
「あの……」
「なに? どうかした」
 返事をしたのはミラ。だがリュールは次の言葉がうまく出てこずに、視線をさまよわせた。
 訊きたいことが――教えてほしいことが、あるはず。でもどう尋ねればいいのか、わからない。
 彼女の様子をながめていたミラが、代わりに云った。
「気になる? あいつのこと」
 見透かされたような言葉に、リュールははっとした。
 知らず知らず、黒髪の女性の方を見ていたのだろうか。声を聞いてか、彼女も階段をのぼる途中で足を止め、リュールの方へ妖しいアメジスト色の目を向けている。
「あんたと同じくらいの歳だもんね。ま、殺し屋にもいろんなのがいるってことだ」
 たいした話題でないと判断してか、黒髪の女性がまたすぐに階段をのぼり始める。リュールはそれをながめながら、うわごとのように云った。
「……どうお考えなんでしょうか」
 階段に足をかけたミラが「ん?」と聞き返すと、リュールは付け足した。
「『他人の命を奪う』ということを……」
 私は、バーベナを殺した。
 自分が犯した罪。だがそれを、彼らは日常的に行っている。
 自分と彼らとで、何が違っているのだろう。
 それを聞くことで、自分が同僚の命を奪ったことを正当化するつもりはなかった。ただ、胸のわだかまりを何とかしたかった。
 リュールの言葉に、ミラが少しかたむいた笑みをみせる。
 そして、そっと彼女の肩に手をおいてから云った。
「――それがあたしらの仕事だからね。仕方ないだろ」










 地下道から抜け出た暗殺者たちは、倉庫の中でおのおの短い準備にとりかかった。
 エルフの男性は鞘からレイピアを抜き、ミラは長い棒状のものを組み立てる。マクギガンは筒の形の短いものに小さな部品を組み入れるなど、複雑な手順を踏んでいた。
 若い黒髪の女性だけは、準備万端というようになにもしないまま、ただ窓の近くで外の様子をながめていた。
「ここから左に出れば、大きな通りがある。そこを右へ進めばすぐに『物見の塔』が見えるはずだ。このあたりは塔の警備のもの以外めったに人が通らないから、近づくのは容易だろう」
 モスカートが四人にむかって云う。エルフの男性がうなずいた。
「ありがとうございました。ここからは私たちの方で動きます」
「うむ。たのんだぞ」
 その光景を、リュールは部屋の隅でかすみがかった気持ちのまま、だまって見ていた。
 このまま四人を行かせれば、フェルトール様が殺され、ウェイン君とウェラさんの命も危ない。でも、いまの自分はモスカートの側に加担している立場。どうすることもできなかった。
 きっと殺し屋の人たちは、自分がフェルトールの弟子であり、その警護をしている魔道師が自分の同級生だということなど知らないだろう。だがそれをここで知らせたところで、彼らが同情するとは思えない。いや、たとえ同情してくれたとしても、それで手加減などしてくれるはずもない。
 他に道はなかったんだろうか――?
 いまさら考えるも、すでに運命の分岐点は過ぎていた。もう自分には、モスカート様しかたよる人はいない。家族のために、ミコールとサガンを裏切り、ネイルに移り住む。そう決めたのだから、あとはモスカート様に従うだけだ。そう考えようとしても、簡単にふんぎりがつけられるほどリュールの心は強くなかった。
 マクギガンが武器――おそらく武器だろう――の組み立てを終えると、窓から外をうかがっていた若い女性が云った。
「……大丈夫。外にはだれもいない」
 このとき、はじめて彼女の声を聞いたと、リュールは気づいた。
「では、いきましょう。私から出ます」
 エルフの男性が静かに倉庫の扉を開け、さっと出て行く。続いてマクギガン、黒髪の女性が続く。
「それじゃね」
 最後に、ミラが軽くリュールのほうに手をふっていった。
 手をふり返す間もなく、ミラが――暗殺者が出て行く。
 閉められる扉。暗殺者たちが放たれ、これから自分の先生だった人の命を奪いに行く。そして、同級生の命も――。
 ウェイン君――。
 絶望的な気持ちになりながら、リュールはただ真っ白な顔で扉をみつめた。
 私は、恩師も、友人の命も見捨てた――。
 彼女にはどうすることもできなかったかもしれない。でも事実として残ったそれは、彼女の胸の中に何よりも深く刻み込まれた。
 もう決して消えることのないほど、大きく残る傷として。
 白い影が、リュールの心に差し込む。無力感が彼女を支配する。それとともに、彼女の中の冷静な部分が現実を達観しはじめる。
 はじまりは、モスカートに命令されてのことだったかもしれない。だがその後、別の道に行ける分岐点があったのをリュールは『両親を守るために』見過ごした。彼女の優しく弱い心には過酷だったが、選んだのはやはり彼女自身なのだった。
 放心した状態のリュールに、後ろからそっと彼女の主人が話しかけた。
「リュールや、ご苦労だったな。これで彼らがうまくやってくれれば、安心してネイルに行くことができるだろう」
 その言葉をなかばうわのそらで聞きながら、リュールはゆっくりとモスカートへ視線を合わせた。
「はい……これで、ネイル国へ行くことができるんですね……」
「そうだ。これからはそなたのご両親もよりいっそう、不自由なく過ごすことができるだろう。リュールにはつらい思いばかりさせてしまって、すまなかったね」
「いえ、いいんです……」
 そっとかぶりをふるリュール。その姿を、モスカートが濁った目で微笑みながら見ていた。
「リュールは本当にわしの言うことをよく聞いてくれるし、よく働いてくれる。心の優しい娘だ」
「でも……」
「そなたは私の指示通りバーベナを除いてくれたし、地下道にも何度もついてきてもらった。そなたがいなければ、今回の計画はなかなかはかどらなかっただろう。感謝しているぞ」
 そうしてモスカートはこれまでにないほど満面の笑顔を見せる。それをみて、リュールの表情も少しだけやわらいだ。
 モスカート様がいなければ、私の両親は――私たち家族の生活は、とっくに崩れていた。
 私は、モスカート様に大きな恩義がある。これからそれを、せいいっぱい返していかなければいけない。
 目の前にある自分の主人の笑顔に答えていくしかないんだ。リュールはそう考えた。
 モスカートが云った。
「リュールや。これからも、わしの言うことを聞いてくれるか」
 リュールははっきりとうなずいた。ようやくその顔にも笑みが戻っている。
「はい。私でよければ、よろしくお願いします」
「ではリュール」モスカートが云った。「さっそくだが、頼みたいことがあるのだ」
「はい、なんでしょう」
 モスカートは平然と云った。
「ここで死ね」
 そして、モスカートは右手に隠し持っていた円盤状の刃物をリュールに向かって投げつけた。
 あいかわらず、モスカートは満面の笑顔のままだった。




 
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