死神と女神の狭間 第三章  

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 自分の未来へ決心をつけたリュールが廃屋でみたものは、みにくく口元をあげる悪魔の姿だった。
 モスカートの放った円盤状の刃物が、鋭く回転しながら一直線に向かってくる。リュールはそれを、反射的に首だけよけた。
 刃物は彼女の顔をかすめ、背後にあった木製の柱につき立つ。かろうじて、彼女は自分の主が放った凶器をかわしていた。
 あまりに突然のことで、なにが起きたのかわからないリュール。
 しかし直後、ほおに走る痛み。
 そっと左手でほおにふれる。手をあらためると、そこには赤い血がついていた。
「――!」
 リュールはまた、頭の中が真っ白になった。
「モスカート……さま……?」
 声をしぼりだすリュール。モスカートはさきほどまで浮かべていた満面の笑顔を打ち消し、黒く濁った目を彼女の方へ向けた。
「ちっ、はずしたか。まあいい。時間はたっぷりあるのだから、じっくりいたぶってやろう」
 云いながら、モスカートは腰のポケットからさらに一枚、丸型の刃物を取り出した。そして見せつけるように、右手でつかんだそれをリュールの目の前でひらひらさせた。
「これを知っているか、リュール。ネイルのデリック地方で作られている、新しい殺人用の器具だ。投げやすいよううまく設計されていて、これがあればわしのような素人でも簡単に人が殺せるというわけだ」
 主人の乾いた言葉が、リュールの耳を素通りする。主人のねじれた視線が、リュールをしばりつける。
 モスカート様が――
 人を、殺す?
 だれを――
「驚いて声も出ないか? ん? まあ無理もあるまい。いままでそなたはわしに尽くしてくれたのだからな。だからこれも主人のためだと思って、そのままじっとしてくれないか。じっとしてくれるだけでいいのだ。簡単だろう? バーベナを殺すことよりも、よほど簡単なはずだ」
 モスカートが手にした刃物をかまえる。ただれた笑みを不吉にうかべながら。
 リュールは、恐怖した。
 いつも仕えていた主人のあまりの豹変ぶりに、彼女は青ざめ、うろたえた。徐々に強くなるほおの痛みと流れる血の感触が、彼女をよりおびえさせた。
「モスカート様……どうして……」
 あとずさるリュール。かすれるような声で、彼女は訊いた。
「どうして、私を……」
 いまだに信じられないといった表情のリュール。だがモスカートは全くかまわず、むしろそれこそが愉快だとでもいうようにえぐれた面持ちで云った。
「リュールや、わしはこれからもガダルカに残って、ネイル国の間者として働くつもりなのだ。そのほうがネイル国にとってはいろいろと都合がよいからな。だからあいにく、そなたをネイル国に連れていってやることはできんのだ」
 モスカートはもっともらしく口にした。
「わしがネイルと通じていることを知る人間は少ないほどよい。これまではわし一人では難しい仕事もあったから、そなたに秘密を打ち明けて手伝ってもらっていたが、今後はわし一人でも可能なことしか残っていない。だからリュール、そなたとはここでお別れなのだ」
 いかにも残念そうといった調子で話すモスカート。だがその口元からは冷たい笑みがもれていた。
 リュールはここまできて、ようやく実感し始めた。
 いまのままじゃ――
 私は、殺される。
「モスカート様……やめてください……」
 すでにモスカートの何を信じればいいのか分からなくなっていたリュールは、少ない希望をかけて訴えた。
「私は……秘密をもらしたりしません。モスカート様がネイル国に協力していることも、だれにも言ったりしません。だから――」
「わかっていないな、リュールよ」
 モスカートはあざけるようにため息をついた。
「そなたは心の優しい娘だ。だがそれゆえ、このような秘密をもったりすれば決してだまってはおれん。自分の中でかかえきれずに、きっとだれかに話してしまう。わしには分かるのだよ、リュール」
 云われ、リュールは胸の中に突き刺さるものを感じた。
 すでに、彼女は話していた。
 見知らぬ他人に――黒服の男に、かかえ切れなかった秘密を、全て。
「だからそなたには、この場で死んでほしいのだ。大丈夫。心配せずとも、ご両親はわしが面倒をみてやる。そなたと同様に、な。クククククッ」
 モスカートが含み笑いを見せる。その奇怪な声に、リュールはおもわず耳をふさぎたくなった。
 この人は、本当にいままで自分が仕えてきた主人なのだろうか。どこかで悪魔にとりつかれてしまったのではないだろうか。そうとでも思わなければ、彼女はとても心の平静をたもっていられなかった。
 リュールは感じていた。モスカート様は自分をいたぶることを、むしろ楽しんでいる。
「リュールよ、じっとしていろ。じっとしていれば、苦しまずにすむぞ。クククククッ」
 その直後、二投目がモスカートの手から投げ放たれた。
 リュールは何も考えず、体を横にかわす。
 思いきって動いたのがよかったのか、今度は体のどこにも当たらずに、投げられた刃物をかわしおおせた。だが床に転がった衝撃で、かけていた眼鏡が前に落ちる。
「ちっ。だから動くなというておろうに」
 いらいらしたモスカートの声が聞こえる。自分を殺そうとする主人の意思が明確に見えたリュールは、ひたすらおびえた。
 歩み寄ってくるモスカート。リュールは眼鏡を拾う間もなく後ずさりながら、逃げる場所を必死に探した。だが部屋の入り口はモスカートの背後にあり、地下道への入り口は閉じてしまったので簡単には開かない。
 リュールは眼鏡を失くした目に涙をためたまま首をふる。ぼやけた視界のまま、部屋の隅へ追い詰められて壁伝いになんとか立ち上がる。だが、そこから逃げ場はない。
 そんな彼女の様子を見ることが極上の悦楽だとでもいうように、モスカートが笑みを浮かべながら迫る。
「そなたは本当によく働いてくれた。バーベナを殺してくれたからな。だから昨日、ウェインも殺してくれていれば、わしも少しは考えたかもしれんな」
「――!?」
 リュールは驚きを隠せなかった。
「どうして、それを……?」
「わしが仕事から戻ったとき、ちょうどあの小僧がわしの部屋から出てくるのに出くわしたのだ。やつはわしに言ったよ。リュールが話している途中で急に部屋から出ていったと。そしてテーブルにはティーポットがあり、わしの机からは毒薬が無くなっていた。となれば――わかるな、リュール」
 ウェインの毒殺に失敗したことがばれていたことを知り、リュールは青ざめた。さらにモスカートが云う。
「どうせあの小僧を殺そうとして、直前で思いとどまったのだろう。結局、そなたはそういう娘なのだ。人をだましたり、殺したりすることのできない、やさしい人間なのだ。だから今後も人を裏切り続けることなどできんだろう。そんな人間がわしのもとにいても邪魔なだけなのだ」
 リュールのかすんだ視界に、モスカートの挙動が映る。表情はぼやけていてはっきりわからないのに、なぜか醜悪な笑顔になっていることが伝わってきた。
「モスカート様……私は……」
 だが何を云えばいいのかわからず、リュールは口をあけたまま壁にもたれかかるだけになる。
 どうにかして逃げたい。だが逃げ道は入り口と地下道以外に思いつかず、視界も眼鏡がないせいでひどくかすんだままだった。手の届く範囲にシャベルやロープがあることくらいは確認できるが、それより離れたところにあるものはろくにみえない。眼鏡は床に落ちたまま、いまはモスカートの足元にある。取りに行くことは、できそうにない。
「クククククッ……いいぞ、その恐怖にゆがんだその顔。そなたの表情は純粋でそそられる。クククククッ……」
 そしてモスカートが快楽におぼれた顔で足を無造作に前へだしたとき――
 何かがふみつぶれる音がした。
「あ――」
「なんだ、そなたの眼鏡か」
 わざとらしく云うモスカートの足元を、リュールはみた。
 ぼやけていたが、わかった。
 父からもらった眼鏡が――
「すまぬのう。まあかまわんだろう。そなたはここで死ぬのだから」
 そう云いながら、つまさきで眼鏡をさらにふみつけていく。ぎりぎりと壊れていく音が、リュールの耳に聞こえた。
 父からもらった眼鏡が形を失って、バラバラになっていく。その光景が、リュールには見えた気がした。
 もう、以前のようには戻れない。
 リュールの中で、なにかがぷっつりと切れた。
 白くぼやけた目で、リュールはモスカートをながめる。主の右手には、またさきほどの刃物がにぎられている。
「さて、そろそろおしまいにしようか、リュール。もう逃げ場はないぞ」
 小屋の隅にリュールを追いつめるモスカート。その目は人を殺す愉悦感で濁りきっていた。
 リュールが壁際で首を振る。見えない視界。恐怖が、彼女の心をおしつぶそうとしていた。
 このままじゃ、殺される――
 だれか、助けて――
 リュールの間近にせまるモスカート。凶器をもった右手をゆっくりと振り上げる。
「返り血をあびたくなかったのだが……しかたない。このままじっくりと切り刻んでやろう」
 そして、モスカートが力を込めて、リュールの首筋めがけて刃を下ろす。
 逃げられない――
 リュールは覚悟して目をつむった。





 そのとき。
 パリン、というガラスの割れる音が響いた。
「――ん?」
 彼の背後にあった窓から、その音は聞こえた。
 リュールがゆっくりとまぶたを上げる。その目に、後ろをふり返ったモスカートの姿が映った。
「だれだ……だれかいるのか?」
 云いながら、モスカートが背後にある小屋の窓をにらむ。その光景をみながら、リュールは思い出していた。
 ――あの窓は、さっき黒髪の若い暗殺者が外を見ていた窓だ。
 どうしてそんなことが出てきたのか、リュールにはわからなかった。だが自然と、彼女の記憶の片隅から自然と引き出された。
「風か? まったく、人が楽しんでいるところを邪魔をしおって……」
 リュールから離れ、窓をあらためにいくモスカート。外をのぞくが、だれもいる気配はなさそうだった。
 少しの時間が、そこに生まれていた。
 リュールは状況をとらえようとした。自分に対してやや背を向けた格好になっているモスカート。それは、彼がリュールに見せた隙だった。
 そのことがわかった瞬間、リュールの心にあった非情な部分が、彼女に告げた。
 いまなら――
 リュールはすぐそばにあったシャベルを手にとると、やや重いそれを力を込めて振り上げながらかけ出した。
 そしてそれを、窓からこちらに向き直ろうとする自分の主人に向かって思い切りたたきつける。
 迷いはなかった。
 リュールの思わぬ行動に、モスカートは受身を取ることすらできない。
 シャベルの先にある金属製の鋭利な部分が、ふり向いたモスカートの顔面に食い込む。肉が裂け、骨のくだけるいやな感触が、リュールの両手に伝わる。
「っ!?」
 声にならない声を発し、モスカートがあおむきに倒れる。なんとか後ろ手になりながら、驚愕という表情をなかばつぶれた顔に浮かべる。
 しばらく痛みをこらえてから、モスカートは云った。
「……リュール……よくも……!」
 そしてうらみをこめた目を、前に立つリュールに向ける。だが真っ白になったいまのリュールの心には、何も通じなかった。
 眼鏡を失ったことで、前とは違う自分になったような気がしていた。
「そなたの面倒をいままでみてやったのはこのわしだというのに……よくもこんな真似が……」
 体を震わせながら、モスカートが立ち上がりつつ右手の刃物をにぎり直す。それを見つけたリュールは、またすぐにシャベルをかまえ、躊躇(ちゅうちょ)せず目の前の男にたたきつける。
 モスカートが思わず腕でふせごうとする。そこに食い込むシャベル。モスカートは刃物を落として悲鳴をあげた。
「やめろ、リュール……やめてくれ……やめてくれぇ」
 モスカートの叫びにもリュールはかまわず、真っ白な心のままシャベルを振り上げ、全力でたたきおろす動作を繰り返す。
 何度も、何度も。
 相手を殺すため、自分の心を殺しながら。
 自分をだましたことへの恨み。自分を陥れたことへの憎悪。
 なにより、こうしなければ自分が殺されるという危機感――
 その思いだけで、リュールは細い腕に残った全ての力をつぎこみ、相手をうちのめす。
 余計な考えを全て消し去り、ただ突き動かされるままリュールはたたき続ける。
 





 気がついたとき、モスカートは血にまみれたまま動かなくなっていた。
 リュールは乱れた呼吸を落ち着かせながら、両手に持ったシャベルを手放す。床に転がる凶器の音が、妙に軽々しく聞こえた。
 自分も返り血を相当浴びていることに気がつかないまま、リュールはゆっくりとひざを折り、そのまま力なく座り込んだ。
 全身をおそう疲労。そして、脱力感。
 口を半開きにしたまま、リュールはしばらくなにも声を出せないでいた。
 徐々に戻ってくる思考。真っ白だった心に、色が差し込んでくる。
 目に映っているのは、ぐったりと倒れた自分の主。絶命した、人間の姿。
 殺したのは自分。
 いま確かに、自分の意志で、私は人の命を奪った。
 力を込めすぎて痛むリュールの両手が、それを実感させた。
 リュールの瞳から、涙がこぼれる。
 リュールはどこでもない場所をかすんだ目でながめながら、傷だらけの心で思った。
 ウェイン君。
 私、もう戻れない――。
 瞳からあふれた透明のしずくは肌をつたい、ほおについた返り血とまじって濁った赤になり、顔から次々に落ちていく。
 リュールは両手で顔をおおった。嗚咽が、彼女以外だれもいなくなった小屋に静かにひびく。だが、彼女をなぐさめる者はだれもいなかった。




 
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