死神と女神の狭間 第三章  

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 開かずの塔。
 それは、ガダルカの城のすぐ南にある、城と同じくらいの高さのある石積みの塔である。
 『鉄の壁』ができるまでは、この塔が物見の役目を果たしていて、常駐の兵士がいた。しかし今は鉄の壁の上から遠くを見通せるようになり、逆にこの塔は壁に阻まれて本来の機能を失ってしまった。したがって、いつもはだれもよりつくことのない、物置のような場所としてしか使われていない。もとは物見の塔という名前だったのが『開かずの塔』になったのも、ガダルカが誇るべき立派な塔であるのに誰にも使われることなく、扉の開くことがほとんど無いという意味でだれかしらがつけたのだった。
 その塔に、フェルトールら一行は宿泊していた。
 ネイル軍の魔法兵器を封じるためには、できるだけ高く、周辺を見渡せる場所が良い。その方が魔法の「効き」が良いからだ、と云ったのは、フェルトールだった。しかし鉄の壁には宿泊部屋は存在しない。そこでフェルトールはベル王弟に、この開かずの塔の最上階を開放してほしいと告げたのだった。
 もともと物見の塔のころに常駐する兵士のための休憩部屋があったため、そこを少し掃除すれば宿泊場所として利用するのは簡単だった。ベル王弟はそれを受け入れ、すぐに利用できるよう準備を手配した。ウェインもウェラも、ガダルカに来てからずっとこの塔で寝泊りしているが、塔につくガダルカの者は少数の門番のみであり、用事は使用人が受けてくれるため、比較的気楽に、不便なく過ごせていた。
 ただひとつだけ、部屋のある階の高さを除いては。
「ハァ、ハァ……」
 地上二十階にある最上階の部屋にようやくたどり着き、息切れしているのはウェインである。
「……いつもながら、この階段は……ハァ、ハァ……きついな……ハァ、ハァ……」
「兄さん……なに……ハァ……息切れ、してるのよ……ハァ、ハァ……全く、体力ないんだから……ハァ、ハァ……」
「いまのウェラに……ハァ、ハァ……言われたくないよ……ハァ、ハァ……」
 そうやってひざに両手をつく双子をよそに、フェルトールは息ひとつ乱れず、がらんとした部屋の中央やや奥に向かった。
「二人とも、若いのにだらしがないな」
「お師匠様が……おかしいんですよ……」
「もう六十二歳なのに……きっと浮遊の魔法でも使ってるんだわ……」
「そら、ウェインもウェラも、こちらに来て座りなさい」
 なにくわぬ顔でフェルトールは招きながら、石造りに薄手の丸いじゅうたんが敷かれた床に座り、座禅を組んだ。
 息を落ち着けながらフェルトールの前に座る二人。すると、フェルトールが云った。
「せっかく他国の戦略会議に出席するという貴重な経験が得られたのだから、ここでこの国の状況について整理しておくとしよう。ではウェイン。君たちの今の状況を説明しなさい」
「は、はい」ウェインはつばを飲み込み、せき払いをひとつしてから云った。
「僕たちは卒業した魔法学院のすぐ横にある宮殿で働いていたのですが、フェルトール様がサガン国を訪問なさると聞き、僕たちもついていきたいとお願いしたのがきっかけでした。自国の中だけにとどまるのではなく、もっと色んな世界を見て聞いて、広い視野を持ちたかったからです」
「あら、私はフェルトール様の警護をするためについてきたと思ってたんだけど」とウェラ。「最近少し体を悪くされてるのに、遠いところへ単身向かおうとなさっていたので、私たちがフェルトール様をお守りしようと――」
「そうだな。どちらも君たちがここにいる理由になっている。それで、なぜ我々はガダルカにいるのかな」
 フェルトールが問うと、ウェインが答えた。
「はい。サガンの各所を回った後、最後に訪れたのがこのガダルカでした。そこで、サガンの国王ファルヴァン四世の協力要請がお師匠様あてにあったからです。侵攻してきたネイル軍が魔法兵器をもっているとの情報があり、その魔法の発動を止めてほしい、と」
「身勝手なお願いよね。表敬訪問に立ち寄っただけなのに、戦争に協力しろだなんて。フェルトール様のお体のことなんて何とも思ってないんだから」
「これこれ、ウェラ。私もただ単純に戦争への戦力として扱われるだけであったなら、サガンに協力などしていない」
「それって……?」ウェラが疑問をはさむと、フェルトールは真剣なまなざしで云った。
「この度の戦争で重要なのは、魔法が兵器として使われている、ということだ。さて、私が学院で常々言ってきたこと、覚えているかな」
「はい」ウェインは云った。「魔法は武器として使うために生まれたのではない。人の生活を便利にするために生まれたんだ、と」
「そう。魔法は何かを破壊したり、人を傷つけたり、命を奪ったりするためのものではない。人々の暮らしをよりよく、より楽にし、人を幸せにするために利用すべきものなのだよ。例えば火。ウェラはよく他人をまるこげにしようと火の魔法を使っているね」
「う……は、はい……」
 ばつが悪くなったウェラの横で、ウェインが苦笑する。
「だがそれは、魔法の起源をたどれば、本来の使い方ではない。火は灯りや暖炉、料理や鉄工等、身の回りの生活で使われており、そのことのみに使われるべきなのだ。しかしネイル軍のもつ魔法兵器というものは、もっぱら破壊をおこなうために魔法を利用している。間違ったことに魔法を使おうとしているのだ。それを私は見過ごすことができない」
「それで、お師匠様はガダルカに残られたんですね」ウェインは云った。「でも、ネイルの魔法兵器というのはどういったものなんですか。本当にあの『鉄の壁』を破壊するほどの威力を秘めているんでしょうか」
「それは正直なところ、私にも分からない」フェルトールが首を振った。
「それは魔法の威力が、というよりも、『鉄の壁』の強度が、と言った方がいいだろう。あの壁がどの程度の魔法の衝撃に耐えうるのか、私にも想像できないのだ」
 ウェラが云った。
「でも、フェルトール様はその兵器の魔法を封じるために残られたんでしょう?」
「うむ。魔法を封じ込めさえすれば、まず壁が破られることはないだろうからな。しかしそれ以外にも残った理由はある」
「「……理由?」」
 双子が同時に反応を示す。フェルトールは身につけたローブのふところから巻物を取り出し、二人の前に広げた。
「……占い」
「そうだ、ウェイン。私はファルヴァン四世から戦争への協力要請を受けてすぐ、この魔法円でここガダルカを占ったのだ」
「ガダルカを?」ウェインの言葉に、ウェラがさらに続けた「占いって人相手だけじゃなく、場所にもできるんですか?」
「うむ。君たちも知ってのとおり、わが国で占いというのは、その人の未来を垣間見て、今後の生活における指針や留意点を得る手法として常識的なものになっている。そしてそれは人だけでなく、物品や場所、あるいは村、町、国に対しても行うことができる」
「国……」あっけにとられるウェイン。フェルトールが続ける。
「さすがに国にまでなると、かなり精度は下がるがな。話を戻すぞ。私がこのガダルカを占ったところ、やや心配なことが分かったのだ。それがここと、ここ」
 その魔法円には複雑な文様が描かれており、円の外側には方位を表す四つの文字が等間隔に記されていた。フェルトールが指したのは、南と、中央。
「中央って、まさか私達がさっきまでいた城のこと?」
 ウェラの言葉に、フェルトールはうなずいた。
「じゃあ、あの王弟とかいう人も、危ないってこと……?」
「王弟が危うくなるかどうかは分からないが、城に何らかの危機がおとずれる可能性はかなり高いだろう。しかしもっと問題なのは、この南だ」
「南は――なんでしょうか。ガダルカには確か南門は無かったはずですが」
 ウェインが尋ねると、フェルトールはやや深刻な表情で答えた。
「そう。門があればそこから敵軍の侵入があるという予測が立つが、渓谷の底に位置するここガダルカは、西が自国、東がネイル国境、つまり鉄の壁。そして南北は断崖絶壁になっている。にも関わらず、この南に不吉な予兆があるということは――」
「内側から、危機が起きる可能性がある、ということですか」
 ウェインが云うと、フェルトールは静かにうなずいた。
「南の崖からネイル国の軍が何らかの形で攻めてくる可能性もなくはないが、それよりもこのガダルカの中から何か災いが起こると考えるのが自然だろう」
「それで、フェルトール様が残って対策を――あれ。でもそれなら、どうしてさっきの会議でそのことをおっしゃらなかったんですか」
 ウェラが疑問を呈すると、フェルトールはすぐに答えず、伸びた白いひげをそっとなでる。
 そしてウェインとウェラの顔をゆっくりと見つつ、慎重なおももちで云った。
「ウェイン。ウェラ。お前たちはこれまで自分の生まれた国、ミコールでしか育っていなかった。魔道立国であるミコールで、だ。魔法使いばかりがいる我々の国では魔法が日常生活に溶け込み、占いも当たり前になっている。しかし他の国ではそうではない。お前たち二人にこの旅で知ってほしかったのは、まさにその部分なのだ」
 フェルトールはさらに真剣な表情で云った。
「さきほどの戦略会議で、ウェラは魔法を軽視されたことに腹を立てていたな。だがそれはガダルカの人間からしてみれば、ごく当たり前のことなのだ。魔法というものは怪しげな、信用できない代物。それがこのガダルカで、いや、このサガンという国での魔法が置かれている立場なのだ」
 師匠の言葉に、ウェインもウェラも、言葉を詰まらせた。
「占いなどは特にそう。他人の未来を見通すことなどできるわけがない。いい加減なことを言うな。彼らはそう思っているはずだ」
 反抗するようにウェラが云った。「でも占いは、他人の未来を見ているわけじゃない。魔法を使って精霊から情報をもらって、ほんの少しだけ相手の方向性を見ているだけ――」
「彼らにはその論理が分からない。特にサガンは尚武の国だ。『鉄の壁』が象徴するように、彼らにとって力とはすなわち兵であり、剣なのだ。彼らが精霊を使うことは無いし、未来を他人に勝手に決められたくないという思いもある。だから、ネイルの魔法兵器の発動をこの塔にいながらにして抑えるということが、彼らには理屈として伝わらないのだ」
「じゃあ、いまからでも何か魔法ですごいことをやってみせて、あいつらを信用させれば――」
「ウェラ、問題なのはそこではない。大事なのは、我々が自分たちの魔法を信じているのと同じように、彼らも自分たちの戦い方に自信と誇りをもっているということだ。それを、普段なじみのない魔法を急に信用しろといわれても無理な話だ。彼らが間違っているわけではないのだよ」
 そのあたりは今後時間をかけてお互いを理解していく必要があるだろう、とフェルトールは付け加えた。
「でも……」ウェラは何か言いたげだったが、その後の言葉が続かなかった。
 その横で、考えに沈んでいたウェインが顔を上げた。
「ではさっきの占いのことは、誰にも告げておられないんですか」
 彼の問いに、フェルトールは「いや」と否定した。
「ベル王弟には伝えた。だが彼もあまり私の忠告を信じていないようだった。『鉄の壁』、それにこの城の兵隊、鉄兵隊と剣兵隊に、相当な自信をもっているのだろうな」
「では、城の中央と南にある不吉な予兆は――僕たちだけで対応するんですか」
「出来る限り、だがな。私もだれか協力的な人間がいないかとさきほどの戦略会議で目を配ってみたが――なかなか難しいようだ」
「……お師匠様、中央と南にある不吉な予兆というのは、どういったものか調べられないでしょうか」
「私もそう考えた。そこで、今度はガダルカの高官に対して占いを行ってみた。さきほどの会議で集まっていた人たちだな。すると、気になる結果が出た」
「気になる結果?」
「うむ。それは――」
 フェルトールが言いかけたところで、不意にドアをノックする音が聞こえた。
 どうぞ、というフェルトールの声で、鉄製のやや重いドアがゆっくりと開かれる。
 そこに現れたのは、白い衣服をまとった二人の侍女だった。そのうちの片方をみて、ウェインは思わず声を上げた。
「――リュールさん!」
 そこには、さきほどの会議で見かけた同級生の姿があった。
 茶色くややウェーブのかかった長い髪。おとなしそうな顔つき。くすんだ赤茶色の大きな瞳。二枚の眼鏡のガラスを通して、彼女は優しいまなざしをウェインの方に向けた。
「ウェイン君……!」
 それから、リュールは三人の方へ小走りに近寄ると、まずフェルトールに向かって頭を下げた。
「先生、ごぶさたしています」
「やあ、リュール君。こんなところで会えるとは思わなかったな。元気にしていたかね」
「はい。先生こそ、お変わりなさそうでなによりです」
「でも君は確か、タリスカー地方に行ったのではなかったかな」
「そうなんです。実は、私の仕えている方がダレールの町に所用があったので、それについて行くことになって……昨日ここに戻ってきたばかりなんです」
 ウェインが口を開いた。「それで、今日の会議まで会えなかったんだね。十日ほど前からここにいるのに、変だなと思ったんだ」
「うん。――ウェイン君も二年ぶりね」
「そうだね」
 ウェインは眼鏡の向こうから微笑みかけるリュールの顔を見上げる。彼女の方も変わっていないな、と彼は思い、少しだけ胸が温かくなった。
 それから四人は少しの間、近況と郷里の話に花を咲かせた。リュールは、卒業してから家族とともにサガンへ移り住んだが、稼ぎ手であった父がすぐに体を壊し働けない体になってしまったこと、それからは自分が両親を支えるために働いていることを伝えた。初めてそのことを知った三人だったが、リュールはつらい事はないんだというふうに、その話の間も笑みを絶やすことはなかった。
 そうして話していると、リュールと一緒にやってきていたもう一人の侍女が、部屋の中に入ってきて彼女の方に近づき声をかけた。
「リュール、そろそろ」
「えっ、もうそんな時間? ――あ、こっちはバーベナさん。私と同じ年に侍女になった人です」
 紹介され、バーベナは少し頭を下げる。リュールが三人に向かって両手を合わせ、「ごめんなさい」というしぐさをした。
「これからご主人様のところにいかないといけないの。またゆっくりお話ししましょう」
 そう云って、リュールは名残惜しそうに三人に別れを告げ、バーベナとともに部屋から出ようとした。
 そのとき、フェルトールが彼女に声をかけた。
「リュール君。君の主人というのは、鉱山局長のモスカート殿かね」
「はい、そうです」
「仕えていて、特に不満や……そうだな、なにか変わったことなどはなかったか」
「変わったこと……?」
 不思議そうな表情を浮かべるリュール。
「特にありません……モスカート様は私によくして下さいますし、何も変わったところなんてないように思います。――どうしてですか」
「いや、なければよいのだ。これからネイルとの戦争になるが、くれぐれも気をつけて。また時間をつくって話そう」
「はい、ありがとうございます」
 頭を下げ、リュールはバーベナとともに部屋から出て行った。
 入り口のドアが閉まり、再び部屋には三人だけになる。ウェインはリュールが去った方向を見ながら、口を開いた。
「……リュールさん、大変ですね。両親を一人で支えているなんて」
「そうだな」
「ところで、お師匠様が最後にお聞きになったのは、どういう意味なんですか」
「モスカート殿のことかね」
「はい。リュールさんが仕えている人に、何かあるんですか。ひょっとして――」
 ウェインが言いかけたところで、フェルトールはうなずいた。
「ふむ。モスカート。彼は私の占いで、あまりよい結果にはならなかった」
「よい結果には――?」
「率直に言えば、モスカートには不吉な兆しがある。このガダルカに混乱をもたらす何らかの動きが、その男から現れる。具体的にどういったものになるかはわからん――本人の故意であるのか、そうでないのかも」
「じゃあ、そのことをリュールさんに伝えた方が……」
「リュール君だけでやってきたなら、そうしていたが。もう一人いたのでな」
「バーベナさん、ですか」
「うむ。彼女が敵か味方か分からなかった。――ウェイン、リュール君と話す機会があれば、また伝えておいてくれないか」
「わかりました」
 ウェインがうなずく。モスカートと、南からの不吉な兆し――これを結びつけるものはなんだろう。そう考えながら。
 さて、とフェルトールが立ち上がる。「少しネイル軍の様子を見てこよう。君たちはここにいなさい」
 そう云ってフェルトールが屋上へ上がる階段の方へ向かう。それをウェインが見送っていると、ウェラがわざとらしく小声でウェインに云った。
「……兄さん」
「? なにウェラ」
「兄さんはリュールさんのこと、どう思ってるの」
「どう? どうって……」
「だから、リュールさんに気があるのか、ってこと」
「……気?」
 ウェラがいらだった様子で云う。「もう、兄さんは鈍いんだから!兄さんとリュールさんの関係はどうなってるのかって聞いてるの!」
「関係、って……ただの同級生だよ」
「でも、学院にいたころ、ずっと同じ図書委員だったんでしょ」
「そうだけど……それが?」
「あー、もういい!」ウェラはあきらめた様子で首を振った。「ほんと、兄さんと話すと調子狂うわ。兄さん、魔法の鍛錬しよ」
「えっ、これから?」
 唐突な提案に、ウェインはこれまでになく露骨に嫌な顔をした。しかしウェラはおかまいなく、
「これから! いますぐ! さあ兄さん、私の火炎魔法受けてみて」
「ちょ、ちょっと待って――」
 かまわずウェラが魔法の詠唱に入る。
 ウェラの鍛錬はいつも突然なんだよな――。
 ウェインはとほほ顔になりながら、しかたなしに防御魔法の準備を始めた。
 始めながら、思っていた。
 ――リュールさんと、僕の関係。
 ただの同級生。友達。
 そう。
 僕らはずっと――
 ずっと友達のままだった。










 フェルトールの考えが及ばなかった点が、二つあった。
 ひとつは、バーベナはリュールの味方であり、かつすでにモスカートの秘密を握っていたことだった。
「リュール。私話すよ、ベル王弟に」
「えっ」
 リュールはバーベナの言葉の意味がわからず、聞き返した。
「話すって――何を?」
「だから、前から言ってたよね。あなたの仕えている、モスカートの隠し事」
「モスカート様の……」
 そのことは、以前バーベナから聞いていた。
「王弟に直接お伝えできなかったら、グレイ隊長にお伝えするわ。あの方だったら聞いてくれそうだし。どちらにしろ、私もうこれ以上黙ってるなんてできない」
「バーベナさん……」
 首元までのびた黒髪を後ろで束ねているバーベナは、リュールとは対照的にきつい目つきをしていた。
「いいよね、リュール。もう言っても」
「でも、モスカート様がそんなこと……とりあえず、部屋で話さない? ここじゃ……」
「――そうね」
 そうしてバーベナが話すのをやめると、リュールはほっとした。
 彼女と話すと緊張する。特に、今は。
 眼鏡のブリッジを指で押し上げる。この眼鏡は緊張して汗をかくと、すぐにすべってくる。
 なおした眼鏡で、バーベナの方をちらと見る。彼女はいつもどおり、すましたような、気の強そうな顔をしている。それを眺めているリュールの瞳が眼鏡の奥で一瞬、灰色になった。
 もうひとつ、フェルトールの考えが及ばなかったこと。
 それは――。




 
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